2013年3月17日日曜日

認知療法との対話(6)

 さて、この「対話」は原稿用紙わずか数枚でいいということなので(ナンのことだ?)そろそろまとめにかかりたいが、結局は認知療法をどのように捉えるか、という問題は、汎用性のある精神療法をどのように定義し、トレーニングし、スーパービジョンしていくか、という大きな問題につながってくるのだ。認知療法も、EMDR も、暴露療法も、森田療法も、効果が優れているというエビデンスがある一方では、汎用性があるとはいえない。つまりそれを適応できるケースはかなり限られてしまうということだ。すると認知療法家であることは同時に優れた「面談」もできなくてはならないことになる。
 たとえば EMDR のトレーニングを上級編まで受け、その専門家と認定されても、よほど著名な先生になって日本中から EMDR を受けたい患者さんが殺到でもしない限りは、それ一筋の治療を行うわけにはいかない。日ごろの臨床では、訪れた患者さんの多くは EMDR の適応とはならないために、通常の一般的な「面談」を行なう事になるだろう。とすればその「面談」の質をどのように高めるべきか、という議論の方が重要になってくるのだ。
 ここら辺で「面談」を「汎用性のある精神療法」と呼び変えて論じよう。私が通常の「面談」にこれまでかなり肩入れしてきたのは、これが患者一般に広く通用するような精神療法を論じる上での原型となると考えたからであった。「汎用性のある精神療法」とはいわばジェネリックな精神療法、と言えるだろう。私は認知療法の治療を経験することで、この「汎用性のある精神療法」の内容を豊かに出来る面があると考えるし、それがこの対話の一つの結論と言える。と言っても、「汎用性のある精神療法」を認知療法的に組み立てるべきである、と主張しているのではない。「汎」(だんだん書くのが面倒になってきた。)はいずれにせよさまざまな基本テクニックの混在にならざるを得ず、いわば道具箱のようになるはずだ。そしてその中に認知療法的なテクニックも入ってこざるを得ないということだ。
 ちなみに私は「汎―」に当てはまる原理は倫理則であると考えるし、そこに30の基本指針を考えて本にした(心理療法/カウンセリング 30の心得』 みすず書房、2012年)。
 「汎―」についてもう少し。私は臨床家は「何でも屋」にならなくてはならないというつもりはない。でもいくつかのテクニックはある程度は使えるべきであると考える。ためしに少しやってみて、それが患者に合いそうかを見ることが出来る程度の技術。そうすれば場合によっては自分より力になれそうな専門家を紹介することもできるだろう。臨床家が使えるべきテクニックのリストには、精神分析的精神療法も、おそらく暴露療法も、EMDRも、箱庭も候補としては入れるべきであろう。そしてそこに認知療法も行動療法も当然加わらなくてはならない。
 精神医学やカウンセリングの世界では、学派の間の対立はよく聞く。認知療法はとかく精神分析からは敬遠される、という風に。しかしこれからの精神療法家は料簡の狭いことを言わず、両方を学び、ある程度のレベルまでマスターすることを考えるべきだろう。なぜなら患者は学派を求めて療法家を訪れるわけではないから。彼らが本当に必要なのは優れた「面談」を行うことのできる療法家なのである。