2013年3月14日木曜日

認知療法との対話(3)



 書いているうちに一つ気がついたことがついたことがある。私は結局あまたある「~療法」と呼ばれるものの素地は、ことごとく「面談」の中に見つけられるものと言っている。人間はそんな特別な療法など発見できないものだ。だから認知療法があたかも「面談」に含まれないような、まったく独立した画期的な治療法だというニュアンスがあるとしたら、それには不満なのである。そうか、そういうことなんだ。だから私は精神分析についても同じことを感じるのである。分析は「面談」とはぜんぜん違うんだ、違うことが起きるんだ、というのは嫌いだ。それでは一日に何回、何十回と行われる「面談」の意味がない、ただの時間つぶしのように思えてくるじゃないか。それが耐えられないのだ。

ということで認知療法の効果的な面の続き。認知プロセスが役に立つ患者さんにとってはこれを拡大して行うことには意味があるだろう。ノートを持参して一週間の振り返りをするのが好きな患者さんもいるだろう。(あれ、これって必ずしも認知療法でなくてもいいような・・・)
では何が逆効果か。治療者が認知療法しかできず、あるいはそれ以外をする気がなく、それを患者に押し付ける場合。認知療法家としての資格を取って、あるいはその資格を取る途中でケースを必要としている場合。患者さんを説得してこれを行う。サイアクだー。でも待てよ、これは精神分析にもいえるな。(なんか今日は口調が変だ。陽気のせいか?)
これはEMDRにもTFTにも言えることだろうが、治療状況によっては実際の手技を行っている時間が短くなってしまい、形ばかりのようになってしまうこともあると聞く。これらの療法の際も最初には挨拶程度の「面談」がつきものだろうが、患者さんの身に大きな出来事があったら、それを話す患者さんを制止して、「それではEMDRを始めましょう」とはならないはずである。配偶者が家を出てしまって落ち込んでいる患者さんの話を聞いているうちに、EMDRを行う時間がなくなることがあって、それでいいのだ。そのように考えたら、結局「面談」を主体にして、それに認知療法やEMDRなどを適宜はめ込んでいく、という考え方のほうが無難ではないだろうか?私は認知療法の大家である大野裕先生と対談した際に、この件を先生に確かめて安心したという経緯がある。
ただし「~療法」の要素はすべて「面談」にある、と言っておいてナンだが、これには例外がある。それは「~療法」としてのトレーニングを行う際に習得したテクニックが、普通の「面談」では思いつかないということもあるということだ。たとえば私は「面談」の中に、患者さんに絵を描いてもらったり、箱庭を置いてもらったり、ということはあまりできない。それらの媒介を用いることに自信がないからだ。たとえば箱庭療法にすこしでも手を染めることでしか、「面談」に組み込もうという発想が起きない。(もちろん箱庭の大家からすれば、「面談」ついでの箱庭などトンでもないのかもしれないが。)その意味では、いろいろな療法の手ほどきを受け、かなり自由な「面談」ができるということが理想、という話になってくる。
そこで話を戻そう。認知療法の訓練を受けることで、初めて「面談」に組み込むことができるようなものはあるのだろうか?(続く。)