2013年3月13日水曜日

認知療法との対話(2)



そもそも面談とはなんだ?
おそらくあまり問われていないけれど重要な問題。精神科医の「面談」っていったいなんだろう? 医者が患者さんとあいさつを交わし、「最近どうですか?」などと問う。患者さんはその時頭に浮かんだこと、あるいは用意しきてきたテーマについて話す。ある時は近況報告、ある時は愚痴、ある時は質問。場合によってはそれが3分だったり、10分だったりする。心理士が主として行う心理面接も実質的にはこれとにたように進行する場合がある。ただなんとなく起きるかのような会話、それが「面談」だ。これほど毎回行われる「面談」のテキストなど聴いたことがない。なぜだ?
「面談」の特徴は、基本的には無構造なことだろう。あるいは「本題」に入る前の、治療とはカウントされない雑談という雰囲気かもしれない。しかしこれがないことには「本題」には入れない。挨拶抜きに人と会うようなものじゃないか。そしてさまざまな出来事がこの「面談」の中では起きうるのだ。「話し始めてすぐ、この先生とはやっていけることがわかりました」ばかりではない。「あの医者はコンピューターの画面ばかり見て、私と目を合わせません。」「ニコリともせず、『ここではあなたを診れませんね』と言い切るんです。」「ふんぞり返って横柄な感じ。」(多分私のことだ)。たかが面談、されど面談。その面談が患者をひきつけることもあれば、それにより徹底的に叱られてしまうこともあるのだ。「面談」にも巧拙、治療的、非治療的なものがあるはずだ。だから失敗すると「あの医者のところには二度と行かない」となるのである。
私はこの「面談」にも昨日のブログで書いた認知的プロセスは入り込んでいると考える。二人の人間が出会い、医師側が患者さんの側に自分のそれを同期化させる。何が起きるにしてもそれからだ。「どうですか?」から始まって、医師は患者側の情報を取り込む。しかしここには認知的なプロセス以外の様々なコミュニケーションも生じているのだ。相手の表情を読む。精神的、身体的な状況を把握する。安心感をお互いに与え合う。感情を読みあう・・・・。「面談」が無構造的にならざるを得ないのは、そしてそのテキストを書くことができないのは、そこで起きることがあまりにも多様で重層的だからだろう。ある患者さんがどうしても聞いて欲しいと持ち込んだ話を30分ほど聞いたと思ったら、次の患者さんははなるべく医師と話をするのを避け、処方箋だけを目的に来る・・・・。対応は180度違うが、それらはやはり「面談」であり、それぞれが適切に行われなくてはならない。
さて認知療法である。認知療法は「面談」の中でも認知的なプロセスを取り上げて、時間をかけて扱うものだと考えられる。前回の面談以降に生活状況で生じた問題とすべき認知プロセスについて確認しあい、宿題をチェックし、アジェンダを決める。毎回うつ病のスケールなどに書き入れてもらう。それはあたかも「面談」で生じるプロセスの一つについて拡大して扱う、というところがある。それだけに特化してやりましょう、ということだ。私にはこれが効果的な部分と、あまりそうではない部分があるように思う。
まず効果的な面。無構造でだらだらした、治療的な意味を持たない「面談」を最小限に済ます効果があるだろう。なにしろ認知療法のプロトコールに従うということは、おのずと「面談」にも時間的な構造を設けざるを得ないからだ。先ほどの例では、非治療的な面談はそれだけ短く済ませられるだろう。しかし・・・・「面談」が稚拙な治療者が認知療法をうまくやりおおせることができるのか?これは確かに問題だ。(続く)