2013年3月11日月曜日

パーソナリティ障害を問い直す(28) 

改めてパーソナリティ障害を見直す(4

人生の後期に「罹患」する自己愛PD
 パーソナリティ障害に関してもう一つ私がいろいろなところで考えを表明しているのが、自己愛PDNPD)という概念のあいまいさ、ないしは奥深さである。すでに「恥と自己愛の精神分析理論」(1997)でも扱ったテーマだが、私たちの自己愛は、放置されれば自然と肥大していく傾向にある。ちょうど私たちの財産や所有物のように、それは増やせる余地がある限りは増大していくものだ。ただし他人に自分の主張を押し付け、賛同や賞賛を求めるということが可能なだけの地位や財産は、人生の前半ではなかなか得られないものである。周囲は人生の先輩ばかりという状況からスタートし、さまざまな場面で教えられ鍛えられ、自分のふがいなさに直面しつつ人生を送っていく。そこに自己愛の肥大のフリーランが起きるだけの余裕はないのが普通だ。自己愛の病理がいかんなく発揮されるのは、だから人生の後半なのである。
 たとえば20歳前後の大学生のころの純情可憐で引っ込み思案だった女性が30年後に大学の教授の地位を得ると豪腕を振るい、他の教員や学生に無理難題を押し付けるようになる、などということが起きる。その場合、20歳の彼女が自己愛パーソナリティを潜在的にもっていたかどうかは、あまり意味のない議論である。彼女が人を支配したい、賞賛を得たいという願望を20歳の時点で常に抑圧していたかは疑問だからだ。本当に素直で親切な御嬢さんだった可能性がある。ただ彼女の人生で起きた出来事が彼女の自己愛の肥大が可能なように展開していったと考えるべきであろう。とすればむしろ彼女が人生の後期にNPDに「罹患した」と考えた方が都合がいい。
 もちろん自己愛の病理は、その条件さえ整えば幼少時にも起きうる。まだ年端も行かない子役がテレビで売れて付き人を従えるようになり、そのうちこれまでどおり「○○ちゃん」と呼ばれるとむくれるようになり、「××さん」(本人の苗字)と呼ぶように周囲に要求するようになる。
 この子役の例なども、売れる前からもともと自己愛的だったが、それがまだ発症していなかった、と考えるべきだろうか?いやパーソナリティ障害を考えるのに、発症と言うのはおかしい。パーソナリティ障害は思春期頃から徐々に明らかになるというのが典型的なパターンだろう。
 私がこのNPDの問題に特に興味を持つのは、世の中のabuse や虐待の問題と、このNPDの問題がガッチリかみ合っている可能性があるからだ。職場での上司のパワハラ職場、職場や学校現場でのセクハラ、教師による暴力的な指導。NPD的な振る舞いが家庭に限局された場合のDVなど。NPDはパーソナリティ障害として扱うのは容易ではないが(そもそも人生の前半でそれが形成されていないためにその定義を満たさないこと、など)その人の人柄や振る舞いが周囲に被害を及ぼすという意味ではこれほど議論をする価値があるものはないとさえ考える。