2013年3月12日火曜日

認知療法との対話(1)



なぜかこのテーマが急に頭に浮かんできた。なぜだろう?不思議だ。タイトルも私が付けたような気がしない。4月中にまとめないと、何か人に迷惑をかけそうな気もしてくる。そこでこのテーマについて、数回にわたって書くことになる。
私は認知療法についてどちらかといえば苦手意識を持っている方だ。ただし認知的なプロセスはむしろ積極的に治療で扱っているとも思う。私は患者さんが夢を報告し始めると、緊張してしまう。何かもっともらしい解釈が頭に浮かんでこないか、それを言いたくならないかとヒヤヒヤするのである。大胆な仮説や憶測は性に合わない。逆に患者さんの心の動きをちょうど一コマ一コマ一緒に追っていくことには醍醐味を覚える。基本的には対人緊張気質なので、人とのやり取りの具体的な詳細については注意を向ける傾向にある。「そこでそういわれた時、どう感じたんですか?」「その時相手は微妙な反応をしたんですね。どうしただと思いますか。」「どうしてその時~とは考えなかったんですか。」というやり取りが通常の治療プロセスと考えている。もちろん人間関係の詳細がわかることで解決することばかりではない。詳細を知って「ほー、そこで相手からそんな反応が返ってきたんですか?」と驚き、考え込んでしまうことも少なくない。そこもまた面白い。
 解離の問題を扱うときには、この一コマ一コマ、を聞いていくことはことさら重要となる。「そこでこう言われた時に、意識が飛びました。」「病院の玄関を入ったその瞬間から覚えていません。」などの話を聞くことが多いが、それらは解離現象のトリガー(引き金)として重要だからだ。
私は基本的には治療は明確化と共感だと考えている。あるいは共感に至るための明確化だ、という言い方もしている。認知プロセスを患者さんと一緒に追うことはその具体的な過程なのだ。もちろん患者さんが訪れる際に求めていることはそれぞれ違う。「胸の内を聞いてもらえるだけでいい」かもしれないし、「話を聞いて、それについてのアドバイスがほしい」かもしれない。しかし何かを話したい、という漠然とした欲求は共通してあるはずである。そこでいずれにせよ治療者は患者の話を聞いて、自分の心の中に自分なりにインプットする作業が前提となる。
 患者さんの話を心にインプットするのは、ちょうど患者さんが持ち込んだUSBメモリーを治療者が自分のPCにできるだけ正確に取り込む、というのと似ている。それが治療者のハードディスクに落とし込まれた時点て、それを見届けた患者さんは一応満足するかもしれない。しかしたいていは治療者にそれを読んでもらい、感想を聞いたり、編集してもらったりすることを望んでいる。ところが治療者の側といえば、自分のPCに取り込んで内容を一応わかった、理解したという感覚を持てない限りは、そこから何も言うことができない。そこで足りない情報を補充していく。それが先ほどの「そこでそういわれた時、どう感じたんですか?」というたぐいの質問だ。そう、むしろ何かを言えるようになるために一生懸命聞くのだ。
患者さんの話を聞きとって何が言えるようになるかは、ケースバイケースだが、そこに一定の繰り返し、パターンが存在することに気が付く、あるいはそれを指摘するということがある。「ここでいつもこう感じてしまうんですね。」「ここでいつもこう振舞ってしまうんですね。」これは患者さんとの話が生み出す成果の一つといえるだろう。繰り返しやパターンは、患者さんの側からは見えない、あるいは異なった見え方をしている可能性がある。そのせいもあって繰り返してしまう。だから治療者というある程度客観的な立場の存在に意味があるのである。
さて、これは認知的プロセスなのだろうか?私はそう思う。しかしもしそうだったら、私はある意味では認知療法をずっとやってきたことになる。でもそれならどうして私は認知療法に苦手意識を持つのだろうか。(続く)