2013年3月9日土曜日

パーソナリティ障害を問い直す(26)

改めてパーソナリティ障害を見直す (2)
 一見SPDと目される人たちの多くが、実は対人関係に非常に敏感で、しかもあまりそれをスムーズに持つ事ができず、したがって人と会うのが嫌い、というよりも「痛い」という人たちである。彼らは人前ではムスッとしていたり、時には傍若無人に振る舞って強面などと言われたりするが、実は非常に敏感でシャイだったりするのだ。彼らが単独での行動を好むのは、この対人関係でのぎこちなさから、一人で行動する方がずっと楽だからである場合が多い。その意味では彼らの性格傾向は、対人恐怖に近い可能性がある。そしてこの傾向と、一人で楽しめて没頭できる趣味を持つということが合わさると、その孤立傾向や回避傾向はそれだけ強くなると言っていい。
 SPDの人たちは時に被害的になりやすく、他者に攻撃心をあらわにすることがあるが、それもこの社交上でのぎこちなさと関係していることが多い。彼らは自然な笑顔を人に見せることができない分、人から「怖い人」「何を考えているか分からない人」と思われがちで、彼ら自身が人から笑顔を向けられることもそれだけ少なくなる。すると彼らは人から敵意を持たれていると受け取る可能性がより高くなり、今度はそれに対して敵意を向け返すというのが現実に近い。
 もちろん人に対して本当に関心がない、という人たちもいるだろう。ある意味ではそれらはコアなSPDというわけだ。おそらくそれらの人達のためにSPDという診断はそれとして残しておくことに異論はない。しかしそれを認めた上であえて言えば、人間は他者からの承認欲求を持たないという方が例外的なのである。どれだけ孤立傾向があっても、どれだけ人に対する関心が薄くても、自分の存在を肯定するような誰かの存在が心地よくないと言う人は非常に少ないだろう。これはハインツ・コフートの自己心理学が教えてくれた教訓といってもいい。自己対象的な存在を必要としない人間の方がまれなのだ。それが証拠に人嫌いな人間であってもあれだけネット上では対話や交流を求めるではないか。
 このように考えると、SPDと呼ばれる人の大部分は、ADや、敏感タイプのNPD(過敏性自己愛パーソナリティ)、これはDSM的に言えば、回避性パーソナリティ障害と限りなく踵を接しているという論法が成り立つであろう。
 結論から言えば、SPDの多くは、回避性かAD、ないしは両方の合併により説明されるのであり、その意味でもSPDの存在根拠は薄くなる。ただしではスキゾタイパルPDが残ることに根拠があるのかは、私にはわからない。スキゾタイパルがSPD+奇矯さや被害念慮であるとするならば、これは統合失調症の病前性格、という意味での存在価値はあるが、さもなければADとしてよりよく説明されてしまうからである。