2013年3月6日水曜日

パーソナリティ障害を問い直す(23)

「解」を読み終えて(6

人を叱るとき、一瞬人は他人を人とは見なくなるようなところがある。(この「叱る」というおかしな表現。汲んでいただきたい。)少なくとも自分と同じような人とは感じないから、叱るという痛みを相手に与えることが出来るようになる。この現象を大雑把に、他人を「もの」とみなす、と表現させていただこう。精神分析的には、「部分対象として扱う」、でもいい。人を厳しく叱るADにも、BPDにも共通してそれが頻繁に見られる。しかしそのときの心の働きは両者ではかなり異なる。
 ADの場合、人を人とみなす力の欠如やムラが考えられる。もちろん彼らも人を人と見ることもある。しかしふと、人は「もの」になってしまう。KTの場合は、秋葉原で歩行者に向かってトラックで突っ込んで行く直前に相手と目が合った時には、ようやく他人は「人」となったが、すでに遅かったという。そしてトラックから降りて次々と人を包丁で刺した時には、相手は痛みを持つ人間には見えなかったはずだ。その他のKTの内的対象像の異常についてはすでに述べた。彼がニュースなどで事故で被害にあっている人を見ても何も感じることがなかったこと、心の中の対象像は今この瞬間に自分に関心を向けていないというだけで、自分の内的世界から消え、それが深刻な孤立感を招いたこと、などの問題である。
 BPDの場合はこれとは違う。彼らは人をを愛する能力がある。というより通常の人たちよりそれが強いかもしれない。しかしそれが相手からも同様に返してもらえないと、愛が相互的でないと感じると、相手を手厳しく叱りたくなるのである。だから彼らの場合、人を「もの」に変える力は怒りである。自分を愛してくれない人を激しく叱るのだ。そのときの対象像は自分を深く傷付けることが出来るほどに巨大な存在で、少々のことでは傷つかないという思い込みがあるのだ。彼らの場合人を「もの」扱いするというと言いすぎだが、その時の相手は、すくなくとも自分と同じ痛みを持った人間としては像を結んでいない。
 以上の点が相手を叱る、という行動については共通するADBPDの決定的な違いである。

ADの敏感さと鈍感さ
 私はADが他人を叱る行動を促進する要因として別のものを考えている。それはADの持つ敏感さと鈍感さの共存という問題であり、これもまたADとそのほかのパーソナリティ障害との異同の問題を複雑にする。
 ADにおいて彼らが様々な感覚において過敏であるということは良く知られたことである。人の表情を見ただけでそこに含まれる無限の情報量に圧倒されて目をそらす。人ごみでその感覚刺激の洪水に耐えられずに耳をふさいでしまう。彼らの感覚過敏はサバン症候群に見られるような特殊な能力とも関係している。数メートル先におかれた物体の大きさをミリ単位で言い当てることができる、鉄道に耳を当て、はるか遠くから近づく列車の音を察知することができる(例が古いな!オリバー・サックスか?)などなど。そしてそれが、他人からかけられた声の調子やそこに含まれる感情などを外傷的なまでの大きさに増幅する可能性がある。何気ないコメントや忠告やアドバイスは、この上ない中傷や厳しい叱責として受け取られる。挨拶をしたらちらっとこちらを見ただけの相手が、自分を心底軽蔑したと思い込む。しかしここで同時に起きているのは、ADの持つ鈍感さ、「表情の読めなさ」なのである。そのために細かいニュアンスを感じ取れない人はより相手からのメッセージを被害的にとってしまう。
 これとの関連で、もうずいぶん前、2001年のことだが、レッサーパンダ帽男殺人事件を思い出す。(佐藤 幹夫() 自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」 (朝日文庫) )毛皮のコートを着てレッサーパンダを模した帽子を被った男Yが、若い女性を追って同じ道を進んでいた。交差点で女性がYを確認した際に驚いた顔をしたため、Yは自分が馬鹿にされたと思い込み、この女性を狭い路地に引き込んで胸や腹、背中などを包丁で刺し、失血により死亡させたのだ。