2013年3月3日日曜日

パーソナリティ障害を問い直す(20)

「解」を読み終えて(3
  そこで改めて問おう。KTBPDとしての性質を備えていたのか?もしBPDの本質が、心の空虚さであり、「自分のなさ」であり、一人でいることの耐え難さであれば、そしてその行動が見捨てられ、孤立することへの死に物狂いの抵抗に特徴づけられるとしたら、KTはそれにほぼ当てはまっていると考えられる。KTが「解」の中で「自分がない」という感覚を訴えている部分は数箇所以上あるが、これも実感を伴ったものだろう。自分の中心に核となるものが感じられず、いつもユラユラしていて周囲の状況に大きく左右されるのである。
 とはいえKTBPDに典型的なプロフィールには必ずしも当てはまらない。BPDは女性に多く、異性との関係でしばしばトラブルを抱えやすく、他者への激しい攻撃性と共にしばしば自傷行為が伴う。KTはむしろ相手に対して黙っているタイプであり、攻撃性は突然の退職などの一見わかりにくい形で表現されてきた。また「解」を読む限り自傷行為などは見られないようである。しかし彼の成育歴には、BPDの病理に関係したいくつもの所見がある。
  すでに紹介した母親からの深刻な虐待。母親の料理の邪魔をしたときは二階から落そうとしたり、九九の暗唱を間違えた時には、風呂に沈めたりしたという記述にもみられる。まあ本当のところはわからない。彼自身の誇張も大いにあるだろう。しかし母親のKTへの振る舞いや養育態度が相当の外傷性を持っていた可能性は否定できない。私はBPDによらず深刻な自己価値観の低下をきたす病理には、少なからず養育者からの繰り返されたメッセージが大きく影響していると考えるが、それはKTについてもいえるのではないか?
  以上のKTに見られるBPD症状についてはすでに論じてあるが、それとADとの関係はどのようなものか?それは併存しているのか、それとも両者に何らかの因果関係があるのだろうか?それに対するごくまっとうな答えは、当然両者はたまたま併存しているということだ。ADは発達障害である。あるいはDSM-V的に言えば「神経発達障害」ということになる。成育歴とは関係ない問題である。彼が相手とは視線が合うまでは人をものとしてしか把握できないということなどは、発達障害的、ある種の脳の配線異常として考えるべきことであり、養育環境に由来するBPD両者は異なると考えるのが妥当ということになる。
  でも両者には微妙な関係がありそうだ。そしてこの辺を探るのが、今回のこのブログの一つのテーマなのである。