2013年3月2日土曜日

パーソナリティ障害を問い直す(19)

「解」を読み終えて(2)

無視しているとか、軽蔑しているとかいうわけではない

 ところで興味深いのが、私たちの「馬鹿にされている」「軽蔑されている」という心理である。年賀状の返事をもらえないくらいのことで、こう感じてしまうのだ。しかし年賀状を返さない心理というのは、それとは「馬鹿にする」「軽蔑する」とは程遠いということを、私たちは同時に知っている。同じことを他人に対して意図的に、あるいは誤ってしているからだ。それは一種の「この人のことを今は考えないでおこう」というscotomization (盲点化)なのである。「まあちょっと、後回しにしよう」としているうちに忘れてしまった、というそれだけのことなのだ。それをどうして私たちは、一時的にも自分の存在が全否定されたように感じ取ってしまうのだろうか。そしてこの自分の存在を否定された感じというのは、「他人から利用された」、「虐待された」、「慰み者になった」、「散々もてあそばれ、捨てられた」と感じる時の感覚に近い。なぜそのような気持ちになってしまうことがあるのだろうか?
 人を自分と同じ存在としてみるか、それとも自分とは異なる、同一化しえない他者と見るかには、実は弁証法が成立している。他者とは、自分と利害を共にする同士であるという可能性と、相反する利害を持った敵という意味の両方を含みうる。前者は相手との同一化を介して係わることを促し、後者はむしろ相手を「もの」として、あるいは排除すべき存在として扱うことを意味する。他人とはこの両方の係わりの対象となるポテンシャルを持っている。しかし私たちが実際に社会で出会う人は、100%仇でも、100%仲間というわけでもない。そのことを私たちは育つ過程で学び、他人を完全に白でも黒でもない曖昧な存在としてかかわることを覚えるのだ。そしてKTはそのような関わりを一番苦手としていたということになるだろう。
 さて私たちはこのような心性を、実はBPDの病理として理解してきた。それをADの文脈で理解することに問題はないのであろうか? そもそもカンバーグ以来、他人を100%仇とか仲間とか見るのはスプリッティングであり、それはBPDの病理として私たちは理解している。それがADに当てはまるのか? そもそもBPDとADとの違いは何なのか?もちろんADは発達障害として、幼少時から存在するのに対して、BPDは思春期以降その存在が顕著になって来る。

 KTの病理の一つとして考えられるのは、このBPDとADの不幸な共存ということである。確かに彼には二つの要素があり、それが病理を増幅させていたということは言えないだろうか。