2013年3月1日金曜日

パーソナリティ障害を問い直す(18) 

 「解」を読み終えて(1)
  今日からは、「『解』を読み終えて」というタイトルにしてみる。「解」を一応読み進める作業は終わった。読んだ感想をまとめて、診断を下すというところまでは、あまり考えなくてもできることだ。でも“解”(一元的なそれを求めることはあきらめたが)には程遠い。一応KTについての情報が頭に入った状態で、少しそれをもとに一人でブレインストーミングをしてみるのだ。

 「解」を読み進めて一つ印象深かったのは、たとえ診断がどうであろうと、KTは他人からの肯定を強烈に求めていたということだ。彼がそばに自分を肯定してくれる存在を持っていたなら、事態はずいぶん違っていたのではないか、と思う。何人もの刺殺という悲惨な「事件」をどこまで食い止められたかはわからないが。そしてそのような存在を持つ手短かな方法としては、心理士による支持的なカウンセリングがあげられる。KTには特異な思考プロセスや、人がものにしか見えなくなってしまうという病理がある。それらを根本的に変えることはできない。しかし病理はある程度精神的に充足している場合には発現しにくい。その意味で支持的なカウンセリングの効果はそれなりに期待できるだろう。
 もちろんカウンセリングを受ければそれでいい、というわけではない。KTが安定した治療関係を維持できていたという保証はないからだ。しかし彼が定期的に通って自分の気持ちを表現できるような場所、そこに週に一度通うことが期待されている場所を確保していたら、あれほど悲惨な結果にはならなかったのではないか。少なくとも「事件」に対する強力な抑止効果はあったのではないだろうか、とも考える。なにしろKTの「肯定された」感は、友達からの「半年後に遊びに行く」という一通のメールだけで充足されてしまうという性質を持っていたのだから。
 ただしカウンセリングを受けるためには、普通は一回に数千円から一万円あるいはそれ以上のお金がかかる。それが払えずにカウンセリングをあきらめている人も多いであろう。精神科の通院精神療法という手もあるが、その為には敷居の高い精神科外来を訪れる必要がある。これは多くの方には抵抗があるだろう。
 さて私は「パーソナリティ障害を問い直す」と言っても、その全体を整地するような野心はない。いくつかの視点を提供するだけである。そしてその視点の一つは、この肯定をめぐる対人関係上の問題に従い、パーソナリティ障害を考えることが有効であろうということである。KTに見られるような、人からの肯定への渇望は、おそらく人間が持っている普遍的なものと言っていい。そしてその肯定が得られなかった際の様々な反応が、PDに大きく影響しているように思われる。
 私のこの主張をもう少しわかりやすくするためには、私の個人的な体験を話さなければならない。私はアスペルガー障害(以下「AD」と略記。ASPDとしたいところだが、こちらは「反社会的パーソナリティ」の意味に使われてしまう。)の体験では、彼らとの関わりで、「不当に扱われた」という不満を聞くことが非常に多いということがあった。それらの不満はもちろん何もないところから出てくるというわけではなく、こちらの対応の不十分さなど、原因は確かにあるのだ。しかし同様の失望は他の患者さんにもしばしば起きる。ADの方々はそれによる不満を直接的に表明することが比較的多いようなのだ。このことはしかしADの人たちが問題というよりは、人が他者からの肯定を受けられなかった時にそれを呑み込み、我慢し、忘れようとするという能力や性質をいかに持っているかということなのかもしれない。ADの人たちには、たまたまその機能が十分でなく、いわば「本音」が表明されると考えることができる。
 誰かから期待していた肯定が得られない場合、私たちはその誰かを恨むだろうか? その通りである。深いレベルでは確かに恨むのだ。私たちは皆一皮むけばすプリッターである。「そうか、彼(女)はこちらを馬鹿にしているんだ。」しかしふつうはここでぐっと飲み込むのである。
 卑近な、しかしあたりさわりのない例で、年賀状を返すか否か、ということを取りあげよう。年賀状を書いたのに返事がない。「元旦の日にもらおうとはもともと期待していなかったが、こちらからの年賀状に返事がないとは何事だ!俺のことを馬鹿にしているんだ、もう絶交だ」などと思う。しかしそこでいろいろな心が働く。「自分だって、年賀状を返してない人がいるもんなあ。」「その人をばかにしている、というのではないんだよね。」となる。あるいは「いくらなんでも年賀状の返事がないから絶交、は大人げないよね。」そう、肯定をしてもらえなかった時の反応は、馬鹿にされたという被害者意識であるが、それは結構早く解毒されるものだ。「たいがいは自分も同じことを人にやっていることを自覚するから。」全国調査では、こう考えることで、このような状況で立ち直っている人が、全人口の80パーセントであるという。(←うそである。)「以前、こんなことで実際に怒ってしまい、後で後悔したからなあ」、でもいい。
 ADの人で、この種の解毒効果が弱いのはなぜかを考える。それは例えば「自分だって同じことを他人にやっているよね。」「その人を実際に馬鹿にしている訳ではないよね」ではないか、と私は思う。つまりこの意味で、「相手の立場に立つ」ことが苦手なわけである。
 世の中には、クレームをつける人々がいる。よく「モンスター何とか」と言われる人々だ。「何とか」には、親とかカスタマーとか患者とかが入るわけだ。ADの方すべてに言えるわけでは決してないが、一部のADに見られる被害者意識は、クレイミングに繋がりやすい可能性がある。少なくともKTにはその傾向が見られる。クレイマーがその執拗さと被害者意識、正義感により特徴づけられるとしたら、それはKTにも当てはまっているのではないか。しかしこれ以上は、一種の差別的な発言と捉えられかねないので注意をしなくてはならない。

ところでクレイマー体質ということではBPDの方も負けていないだろう。(こちらの方も実は差別的になりかねないが。)