2013年2月28日木曜日

パーソナリティ障害を問い直す(17) 


「解」を読み進める(15

それにしてもこのダラダラした考察を続けることができるのは、このブログのおかげである。どうせ誰も最後までは読まないだろうが、ひょっとしたらひとりくらいには読まれているかもしれないから少しちゃんと書こう、くらいの緊張感がちょうどいいのである。

KTのアスペルガー問題

KTの精神鑑定の進捗状況はわからないが、アスペルガー障害ないしは広汎性発達障碍(PDD)の可能性についてはおそらく問われることになるであろう。ところがこれは実は微妙な問題をはらむ。
以下に参考のためにDSM-IVの診断基準を示そう。
A.以下の少なくとも2つで示される、社会的相互作用における質的な異常
1
視線を合せること、表情、身体の姿勢やジェスチャーなどの多くの非言語的行動を、社会的相互作用を統制するために使用することの著しい障害
2
発達水準相応の友達関係をつくれない
3
喜びや、興味または達成したことを他人と分かち合うことを自発的に求めることがない(たとえば、関心あるものを見せたり、持ってきたり、示したりすることがない)
4
社会的または情緒的な相互性の欠如
B
.以下の少なくとも1つで示されるような、制限された反復的で常同的な、行動、興味および活動のパターン
1
ひとつ以上の常同的で制限された、程度や対象において異常な興味のパターンへのとらわれ
2
特定の機能的でない日課や儀式への明白に柔軟性のない執着
3
常同的で反復的な運動の習癖(たとえば、手や指をひらひらさせたりねじったり、または身体全体の複雑な運動)
4
物の一部への持続的なとらわれ

おそらくKTはこれらの基準を十分に満たさない可能性がある。少なくとも[解]から私たちが知る限り、彼は学校を卒業するまでは、「常に友達と一緒に過ごしていた」ことになっているのである。もし彼が「A2発達水準相応の友達を作れない」としたら、そのような状況が継続していたとは考えられない。彼の社会的な孤立は学生時代のかなり早期から起きていたはずである。またKTの記述からは、かなり友達にサービス精神を発揮し、友達が喜ぶのであれば自己犠牲的に物や情報を提供していた様子が伺える。
 「A3 喜びや、興味または達成したことを他人と分かち合うことを自発的に求めることがない」については、それどころか、自分の趣味に関することではあるが、それらを積極的に友達と分かち合うことで、孤立を避けていた可能性がある。Bの「制限された反復的で常同的な、行動、興味および活動のパターン」については不明である。KTはインターネットでのゲーム等に精通しているようであり、その意味ではこのBを満たしている可能性はあるが、それを積極的に疑わせるようなエピソードはその手記(「解」)を読んでも特別浮かび上がってこない。むしろKTの頭にあったのは、いかに他人との交流を保ち続けるか、いかにそのために他人の関心を保ち続けるかと言うことにあったといっていい。
さてそれではKTはアスペルガー障害ではなかったかといえば、「私の理解するアスペルガー障害」には合致する面があるのである。そこでこの「私の理解するアスペルガー障害」について考えてみたい。
私はアスペルガー障害の主たる病理は、共感性の障害であると理解している。共感性とは相手の気持ちを感じ取る能力である。目の前にいる人の喜びや痛みを自分の心に移して感じ取る力。他人を精神的身体的に傷つけることに対する抵抗もそこから来る。人を傷つけることは、自分でも「痛い」ことなのだ。逆に相手の喜びは自分のものとして感じることが出来るために、相手を喜ばせ、心地よくさせることも自然に行なうことができる。そうやって対人関係が成立し、継続していく。
 共感能力には、相手が「考えていること」もその対象に含む。私たちがコミュニケーションをする際、相手が何を思って話しかけてきているのかを直感的に感じ取ることが出来、それに対応することが出来る。それが出来ないと「空気が読めない」ということになり、集団から仲間はずれになる。
KTの病理を考えるとき、ここで精神医学の専門家は引っかかることになる。彼の手記には、彼が友達づきあいをし、時には人にサービスをする為に自己犠牲精神を発揮することをいとわない点に注目し、この種の共感能力は不足していないのではないかと考える。その点は私も同様であり、したがってアスペルガー障害の診断というラベルも「貼りつき」にくい。そのためにPDDNOSあたりが無難ではないかと思う。これは「他に分類されない広汎性発達障害」を意味し、いわばアスペルガーもどきとしてその病理を位置づけるわけである。
特定の状況で、あるいは特定の感情について他人の気持ちが見えなくなるという病理が彼らにはあるのだろうか?おそらく。アスペルガー障害としての診断をつけることにあまり躊躇しないケースに関しても、さまざまな場面でさまざまな形で他人の気持ちを読み取り、感じ取ることは確かだ。アスペルガーの人たちの大部分は、対人関係を求め、それが得られないことを苦痛に感じる「寂しがり屋」である。ところがやはり彼らの対人コミュニケーションには特徴、いや欠損があるのだろう。それは彼らが持つ傾向のある猜疑心や被害念慮という形で現れる。彼らが持つのはコミュニケーションの微妙な障害なのだ。それが一見通じているようで実は通じていない対人関係を築く。人との関係の齟齬は常に生じては徐々に、あるときは劇的に拡大していく。これはどうしてだろうか?そしてこれは通常のパーソナリティ障害とどう絡んでくるのだろうか?
このあたりを探っていくことが、この今回のブログの一つのテーマなのである。