2013年2月13日水曜日

パーソナリティ障害を問い直す(2)

「解」を読み進める(1)


 「解」について書く際に私は筆者をKTと書くことにする。もちろん彼は加藤某という実名で書いているわけだが、なぜか実名を書くのがはばかられる。それに事件の詳細についてもおそらく「事件」とだけ書くと思う。そうすることで多くのことに目をつぶりながら書くことになるが、それはこの事件の直接の内容に触れることには本当は後ろめたさがあるからだと思う。軽々しく論じられないほどに多くの人々が亡くなっているのだ。
 もっと言えばこの「解」という書が刊行されたことにも疑問を覚えるところがある。人を多数殺傷した人間が、なおかつ自分の考えの表現を持つという機会を与えられていることが信じられない。自己表現は、そうして彼が後に書くように、「誰かが自分のことを考えている」と想像することは、彼を癒す部分があるのである。以下に見るようにどのように本書を執筆することを正当化しようと、そこに利己的な動機が含まれるとしたら、それは許されるのだろうか?このような書は、せめて彼の話を聞き取った第三者が著すべきではないかという気持ちはある。とはいえ、彼の「解」を読んで感想を書く私もある意味では「同罪」なのである・・・・・。
「はじめに」は彼が起こした「
事件」に対する謝罪の言葉から始まる。そして次のような文がある。
「私が自分がどうして事件を起こすことになったのか理解しましたし、どうするべきだったかにも気づきました。つたないながら、それを説明できる言葉も見つけました。それを書き残しておくことで、似たような事件を未然に防ぐことになるものと信じています。」、とこれが正当化の部分である。
彼が「自分がどうして事件を起こすことになったかを理解していた」というとき、それは彼の主観世界において、どうしてそれが必然になったかということを意味するのであろう。私は彼のこの主張を偽りのものとは思わないが、ここまで言い切るある種の naïveté には少し驚く。と同時に彼の中である意味で首尾一貫していたのであれば、確かに「似たような事件を未然に防ぐ」ことに確かに役立つかもしれないとも思う。