「解」についての冗長な考察を続けているが、いちおうこれでも考えながら書いているのである。スピードが出ないのは、私がこの本に出てくる彼の思考や感情の記述を十分に追えずにいるからだ。KTの頭で生じていることは、それだけわかりにくい。
読み進めるうちに、KTの人生の破綻の序章という雰囲気が漂ってくる。不思議なことだが、私の頭の中で、KTの人生は終わっているかのように感じる。KTはその引き起こした「事件」の甚大さからも、到底生きていてはいけない存在だからだということもあるし、おそらく彼の今後の人生の中で死刑執行以外に意味ある出来事は生じてはいけないとも思う。しかし彼は刑務所の中でおそらく安らいでいるだろうとも考える。彼は独房にいてさえも孤独ではないはずだし、もしそうだとすると、やはりそれは問題なのだ。彼が奪った多くの命を償うことは、彼の死をもってしかないだろう。
彼の手記の「自殺(2)」に進む。順調だったはずの彼の生活は2007年の7月に突然終わってしまう。両親が離婚をしたことをきっかけに、青森の実家を出されてしまったからだ。そして彼の孤独を埋めるための放浪が再び始まり、運送会社での仕事を辞めてしまったこともその追い討ちとなった。
彼の退職のパターンは大体決まっている。自分が理不尽に扱われていると感じ、被害的になり、会社の「間違った考え方を改めさせるために」何らかの嫌がらせや損害を与えて「痛い目を見てもらおう」と考えるが結局実行に移さず、自暴自棄になり、あるいは職場への当てつけの意味を込めて仕事場から突然去ってしまう。そしてアパートに帰った時の強烈な孤独感が、彼を死に一歩近づける。しかし今度は彼を自殺から救ったのは、兵庫の友人であったという。その友人が半年後に遊びに来るという連絡を入れただけで、KTの自殺の考えはうせてしまったという。しかしこの章に続く「自殺(3)」では、その友人が来るのが実は一年半後ということがわかってまた絶望し、本気で自殺を考えるようになる。この辺が実にめまぐるしい。
この時の彼の自殺企図の様子は精神医学的に見て非常に興味深い。彼は駐車場で車の中に籠城し、そのまま死のうと思ったが、不審に思った駐車場の管理人に警察を呼ばれてしまう。KTはその警察官に「何をしている」、と聞かれただけで、「久しぶりの人との会話に涙があふれた」という。しかし警官に自殺しようとしていたと告げたところ、「生きていればいいこともある」と言われて「心が凍りつきました」とある。それは「(俺は何もしてやらないけれど)生きていればいいこともある(だろうから、一人で勝手に頑張れ)ということだからです。」ということだ。
その後また状況は反転する。その駐車場の管理人にそれまで溜まっていた駐車料金を請求されて、今は支払えないと答えたところ、「年末までに払えばいい」と言われる。すると「自殺のことなど、一瞬で消えてなくなりました」というのだ。彼はそれをこう説明する。この言葉はその駐車場の管理人が彼を信用して待っているということを意味する。そうである限り、彼は生きながらえることが出来る。実際KTはそれから静岡で仕事を見つけ、後に仕事をしてできたお金を持って上京し、管理人に返済をしたところ、感謝されたという顛末が語られる。
他人からのひとことで、ある時は一瞬にして心が凍りつき、別の場合は自殺の考えがすっかり消え去ってしまう。これはいったいどういうことだろうか? もう何度も見てきたKTの心の動きだが、彼の思考の奇妙さがそのたびに浮き彫りになる。彼の心の中の他者イメージにより簡単に寂しさが癒される。章の最後でいみじくも彼は言っている。「約束があれば、孤独でも孤立しません。私が誰かのことを考えた時、その誰かと約束がされていれば、その人の頭の中にも私がいる、と思えるからです。」
KTにおける内的対象の性質
KTの思考プロセスがどうして奇妙に思えるのかについて改めて考える。精神分析に内的対象という概念がある。わかりやすく言えば、心の中に思い浮かべるある「人」のイメージのことだ。通常はその「人」が自分をどのように思っているのか、つまり愛情を持って見つめているのか、それとも憎しみを抱いているのか、あるいは全く関心を持っていないのか、などが非常に重要となる。その「人」に愛情を向けられていると信じられることで満足するかもしれないし、憎まれていると感じられることに耐えられない、ということもあるだろう。しかしともかくも実際にその「人」が目の前にいなくても、その「人」を心に思い浮かべるだけで、一緒にいる気分になる。そう感じられるだけの能力を、正常な発達を遂げた私たちは備えているのだ。数日前のブログで、「人は本来孤独を恐れるものだ」と述べたが、内的対象を持てるということは、その孤独を癒す最も有効な手段といえる。もちろんそれだけでは満足できず、実在して隣にいてくれる「人」の存在も私たちは必要としているわけだが。しかししばらくの間孤独に耐えなくてはならない時も、ある「人」を思い浮かべることでそれを和らげることが出来る。たとえその「人」は遠く離れてほとんど会うことはなくても、実際にはもう亡くなっていても、「あの人は生前私のことをいつも温かく見守っていた」と感じられることで、内的対象イメージは私たちの心を内側から温めてくれる。ところで内的対象と実在する「人」とはどう違うのか?「人」には、その物理的な存在だけでも安心したり、心強く思ったりするというところがある。その人が特に自分のことを愛していなくても、特に関心を持ってくれていなくても、同じ建物にもう一人いるということで安心するということもある。夜中に一軒家にひとりで過ごすときの不安を考えるといい。ルームメイトがいるだけで、たとえその人と言葉を交わさなくても心強く感じるものだ。それを実際の「人」の物理的な存在という側面と考えよう。そこにいるだけでいい、という意味で、である。
さてKTにとっての内的対象とは、この物理的な側面を持っている、ということを私は言いたいのだ。通常の内的対象は、自分に向けている気持ちが大きな意味を持つ。「ただいる」だけでは足りないのだ。ところがKTにとっての内的対象は、ただ物理的にそこにいる、というだけで安堵感を与えると言うところがある。そこが奇妙なのだ。逆に言えば、内的対象の持つ意味があまりないということになる。心の中の「人」が自分を過去に思ってくれていたのであれば、それで心の中では孤立しない、という事は彼の場合には起きない。内的対象像は、自分の事を心に留めることをやめた瞬間に・・・・・消えてしまうのだ。これは本当の意味で内在化された対象イメージではない、ということになる。内的対象を持つという機能の何らかの異常、欠損、ということをとりあえず考えつつ、まだまだ未完成な考察のまま、さらに読み進める。