2013年2月19日火曜日

パーソナリティ障害を問い直す(8) 

「解」を読み進める(6)

 次の章「青森の実家での生活」では、KTの人生にひと時の安定が訪れる。自殺を寸前で思いとどまった結果として車を大破した彼は、援助を求めて青森の実家に帰らざるを得なくなった。そしてそこでふたたび家族との交流が再開する。彼は運送会社に職を求め、仕事を終えて夜は帰宅するという生活を始める。
 「仕事中、一人でトラックを運転していても、孤独ではあっても孤立はしていません。会社の車を運転していることや、荷物を待っている人がいることが、社会との接点になっていたからです。仕事を終えても実家という帰るところがあります。帰ること、家にいることそのものが、母親のために、と社会との接点になっています。孤立とはまったく縁のない生活になりました。」。
 ここでの孤独と孤立の違いの説明はそれなりに説得力がある。また自分の行動が誰かとの接点を感じさせるものでありさえすれば、それでよかったという彼の記述も興味深い。このような形での孤独感や空虚さの埋め合わせ方は、やはりBPDとは異質という印象を受ける。BPDの場合、特定の誰かに去られるという出来事を通じて、その孤独感が痛烈に感じられるのに対して、KTの場合は要するに寂しさを紛らわしてくれる人なら誰でもいいし、それが絶たれるととたんに苦しくなるという、まるで薬物依存のような傾向がある。(何日か前の記載で、彼がちょうど空中の酸素のように社会との接点を必要とする、という書き方をしたが、同じような意味である。) KTの社会との接点への飢餓は、たとえばゲームや読書など、一定の間自分の興味を満たしてくれるものでは満たされない。あくまでも実際の「人」なのである。単なる「寂しがりや」の極端なケースなのか、この人間は? もちろん精神医学的な検証をしようとしているときに、それを「病的寂しがり」で済ませるわけには行かない。彼が「事件」を起こすに至るには、他のいくつかのピースが考えられるだろう。しかしこの私が仮に名づけた「病的さびしがり」傾向も、一つの重要なピースであることは確かだ。
 ともかくも実家暮らしをしているKTの生活ぶりを見る限り、KTは至極普通の人間のように見えてもおかしくない。他人に迷惑をかける、という感覚も備わっているようだ。「偶然のことですが、車屋にレッカーしてもらって車屋にいることで、車屋が社会との接点になりました。修理もできない車を置いたままピットを占領していては迷惑だと思い、その迷惑をかけている状態を解消するという行動の理由ができたからです。」とある。さらには掲示板で自虐ネタを披露する、ということも学習する。この頃、すなわち2007年の春ごろに彼と接した人は、彼がわずか一年後には、秋葉原であの「事件」を起こすことになると想像だにしなかったはずである。市井の人として淡々と仕事をこなし、しかも他人をそれなりに気遣うことができるKTがどうして殺人を犯すことになったのか?私たちの問題意識は常にそこに帰っていくわけだが、結局それが示しているのは、次のことのようだ。殺人は、「人の痛みがわからない」ことの究極にある、というわけではないこと。通常の状態とは異なる、ある種の精神状態に置かれ、そこでは特定の視点が盲点化され、特定の感覚が麻痺し、特定の目的のために行動がとられる。ただし誰でもこの特異な精神状態に置かれるわけではない。それを準備するようないくつかの条件、私が言う「ピース」があるのだろう。
 私は仕事柄解離の病理に接することが多いが、KTに見られるのも不連続性である。(そんな結論にこの先至りそうである。)