2013年2月18日月曜日

パーソナリティ障害を問い直す(7) 


「解」を読み進める(5 
 ここ数日、「解」を少しずつ読み進めて、その感想をブログに書いている。
4番目の章「自殺(1)」は興味深い章だ。彼は言う。「孤立すれば、自殺はもう目の前です。私は肉体的な死には特に感じるものはありませんが、社会的な死は恐怖でした。ですから孤立の恐怖から逃れるために自然と自殺が思い浮かんでくるのだと思います。」そしてそこから20058月末の、自殺一歩手前に至るまでの経過が書かれる。
 KTは当時孤独を紛らわすために、接客業の女性を買い、出会い系の女性と時間をともにし、ヒッチハイクで話し相手を見つけた。いずれも孤立を一時的に癒してくれるが、どれも本質的ではない。根本的な解決策がない限り、自然と死に向かっていったという。しかし自殺をする、という行為もまたその瞬間までの孤立を回避するための手段として使われることになる。そのために昔の友人にメールでそれを宣言するのだ。すると自殺は彼らに対する「私と一緒にいてくれない、という彼らの間違った考え方を改めさせるため」に「彼らに心理的に痛みを与えるため」のものとなるという。KTはそれを「自殺をしようとすることで社会との接点を作ることができる」と表現する。
このあたりの記述は、KTにとって自殺や他殺という社会にとって甚大な影響を及ぼすような行為が心の中でどのように位置づけられていたかを知る上で貴重である。通常人間は人の命を奪う行為については、それが自分のものであれ、他人のものであれ、最大の抑制がかかるようにできている。それは強烈な恐怖や罪悪感とともに自らの行動目的からは極限までに遠ざけられるのが通常である。私がこの問題を重視するのは、それでも世の中には、「自分の肉体的な死に特に感じるものはない」人たちがいて、おそらくその一部の人たちは、「他人の肉体的な死」についても「特に感じるものはない」ことを意味し、それが他人の「間違った考え方を改めさせる」ために容易に使われてしまう可能性があるということである。KTのように。おそらく孤独を何よりも恐れるという人たちはこの世には少なくないのだろう。というより人間存在は本来孤独や孤立を恐れるのであり、あとは個人個人がそのためにどのような巧妙な防衛手段を備えているかということになろう。しかし自分の肉体的な死に関しては、それを何も感じないという人はきわめて例外的なはずである。孤独も怖いが、死ぬのも怖い、というのが普通なのだ。ということは自分の、そしておそらくは他人の肉体的な死に頓着しないというKTの精神の畸形が、「事件」を考える上でもっとも本質的な問題としてあると考えるべきなのだろうか? もしそうだとするとこのまだ全体の10分の一も読み進めていない「解」の解は、すでに与えられているのかもしれないとも思う。でも果たしてそれでいいのか?死を恐れるというおそらく本能に根ざした部分が、彼の場合スイッチオフされていて、それが「事件」につながった、その理解でいいのだろうか?
 ともかくも「自殺(1)」の章は、予定通り対向車と正面衝突をする寸前だったKTが、登録していた出会い系からのメールをたまたま受信することで、「孤立の解消が期待できた」ためにハンドルを切り、自殺を中止するところで終わる。これもスイッチオフされたように。