2013年2月16日土曜日

パーソナリティ障害を問い直す(5) 

「解」を読み進める(3)

本書の冒頭の「掲示板を始める」という章にすでに、そのもう一つのファクターは現れる。それは被害念慮に基づく激しい攻撃性である。KTはかつて勤めていた宮城の会社を辞めた経緯についてこう書いている。「人件費がかかりすぎる、という理由で時給から固定給にされて残業代が支払われなくなったこと、指示されて進めていた作業をひっくり返されたことなど、ある上司とのトラブルが原因だったといえます。ただし、ただ嫌になって辞めたという単純な話ではありません。」そして次に問題の箇所が出てくる。
「まず私は、その上司のさらに上司に退職願を提出することで意思表示をしてみましたが、それが通じなかったため、事務所に放火したうえで、消火栓からホースを引いてきて放水し、少し痛い目にあってもらうことで間違った考え方を改めさせることが思い浮かびました」と書かれ、次に「しかしそれは思いとどまっています。同じ事務所には、よくしてくれる先輩や眼をかけてくれる上司もいたからです。そうした人たちには迷惑をかけたくありませんでした。」とある。
 放火うんぬんという部分はその重大さを見逃される可能性がある。このくらいのファンタジーはよくあるし、頭に浮かんでも実行に移さなかったのだから大したことはない、と思われるかもしれない。しかしKTはこのファンタジーを実行するだけの危険性を持っていたことをすでに私たちは不幸にして知っている。その目でこの文章を読むと、この人物がいかに危険な存在かを改めて知るのである。
この短い引用に私が問題と思うのは以下の点である。

1. 「指示をひっくり返された」こと、「上司トラブルになった」ことについての詳細はわからないものの、その報復としての放火という手段が尋常ではないこと。
2. 「少し痛い目にあってもらう」が「間違った考え方を改めさせること」にとって効果的であると信じていること。
3. 「ただ嫌になって辞めたという単純な話ではない」という主張の根拠が希薄なこと。
4. 「よくしてくれた人に迷惑をかけたくない」という根拠のみでファンタジーを実行しなかった様に思えること。
 1. については、こう言っては問題かもしれないが、職場ではよくあることではないか? 雇用者と被雇用者、上司と部下の関係が本当の意味で平等と言えるはずもなく、大体前者から後者への扱いは高圧的で理不尽で、場合によっては虐待的ですらある。それが倫理的に許容されるべきかどうかとは別に、それにある程度は耐えることでしか仕事を維持できないということが多いのが現実である。その様な扱いを受けたことの報復としての放火は人命にかかわることであり、因果応報というには程度が余りに違う。
2. については、同じロジックがこの「解」の中では何度か用いられ、最後にはあの「事件」にまで至る。それさえもネット上での彼の「なりすまし」を行っている人物に対して、「間違った考え方を改めさせること」として為されたという経緯(実はそうなることが先を読んで行くとわかる)から、結果的にこのロジックの異常さも逆照射される。大体人間は他人から「痛い目にあわされる」ことで自分の考えを変えるだろうか? それほど単純なものとして人間を見ているのか。大体他人から「痛い目」にあわされることで反省したり改心したりすることなど通常は起きないことは、自分自身の体験からわかることではないか。ただしそれでも私たちが自分が誤解されたり不当に扱われた際に激しく相手を糾弾するということが頻繁に起きるのは、それが自らの怒りの表現手段となるからであろう。逆ギレはそれなりにカタルシスになるのである。それは相手の考えを改めさせるためではなく、相手を屈服させるために、あるいは相手に痛みを与えるために行うものだ。
3. については、「ただ嫌になったという感情的な理由から仕事をやめたのではない、もう少しそうするだけの理屈ないしは正当性があったのだ」と言いたいのであろう。しかしはた目からはもっぱら感情的な理由が仕事をやめた最大のきっかけであるように見える。
4. については、放火(たとえ直後に消火をしたとしても)という行為の非倫理性、反社会性がまず自らに問われていないのが奇妙である。たまたまその職場で「よくしてくれた」人がいなかったとしたら、放火という行為にストップをかけるものはないかのようである。そして実際の「事件」でも、相手が自分にとって見知らぬ人々であったから(つまり「よくしてくれた」人がそこに含まれなかったから)こそ犯行に及ぶことができた、というニュアンスがあることからも、この論理の異常性が結果的にわかるのである。
このように本書の冒頭の部分ですでに問題とされるべき点は、ことごとく「事件」に結び付いているというニュアンスがあるのである。