2013年2月15日金曜日

パーソナリティ障害を問い直す(4)


「解」を読み進める(2

ところでこの「解」という著作は、B6170ページという薄いものである。そこにKTは「事件」に至るまでの経過を短い章ごとに記載する。どこまで編集者の手が入っているかはわからないが、彼が獄中でしたためたらしい手書き原稿のコピーが部分的に掲載され、それがたしかにKT自身の文章であるという印象を与えている。文章を書く素人のものとしては比較的読みやすく、内容としてもまとまっている。その内容から少なくとも著者の中等度以上の知能レベルと文章の構成力をうかがわせる。
最初の「掲示板を始める」とそれに続く「埼玉での生活」では、KTがネットの掲示板に「依存」していたという状況が示されるが、おそらくKTの病理を知る手がかりになる重要な記載部分と言えるので少し詳しく見たい。その病理とは、彼が孤独に耐えられないということだ。彼に言わせると、彼は孤立とは恐怖そのものであるという。「高校時代は昼間は学校に行き、授業が終わると友人宅に直行して深夜まで遊び、休日は朝から友人と遊んでいました」とし、高卒後進んだ短大でも、寮生活で常に誰かと一緒に過ごし、長期休暇は高校時代同様友人宅に泊めてもらったという。つまり彼は人生の一時期までは、常に誰かと一緒に過ごすということ以外の生き方をしてこなかったことになる。そして埼玉の工場に派遣で働くようになってから、仕事が終わり寮に帰っても寝るには早すぎ、そこで初めて一人ですごす時間が出来た。それが彼にとっては地獄だったというのだ。彼は世の中から自分がたった一人取り残された感じがし、それは「マジックミラー越しに世界を見ているようなもの」であったという。つまりこちらは相手を見えても、相手が自分のことを見ていない。その状態が恐怖となるのだ。
 では彼は心の中に誰かを思い浮かべることでそれに耐えることが出来なかったのか?それについて彼自身が言う。「私が頭の中に友人を思い浮かべても、その友人は私のことは考えていない、と私は感じてしまうのだ」。そしてそのようなKTがその孤独感を癒す方法としてネットの掲示板を利用することが出来ることを知る。掲示板へのメッセージに対して登校すると、それに対して側メッセージをくれる人がいることで、彼はその人が事実上そばにいるのと同じであると感じて、一息つけるというわけだ。
ここら辺の記述は精神医学的にも興味深い。孤独が耐えられない、というのはもちろん程度問題であるにしても、それが以上に苦痛に感じられるという一群の人々がいる。それが境界パーソナリティ障害(BPD)と言われる人々である。KTがその病理を有しているかどうかは別として、それを関連付けさせるような記載と言える。
ただし孤独に耐えられないことが、BPDの病理を思い起こさせると言ったとたん、それとのかなりの相違も感じられるのもたしかだ。BPDの場合、ひとり暮らしが不得手、と言うわけでは必ずしもない。事実多くの人は独居生活を送る。しかし特に自分の意中の人の心が離れていくことに耐えがたい苦しみを感じるのだ。それがあたかも彼女たち(まあ、一応女性のほうが多いので、こう呼ばせていただく)の中に巣食う根源的な空虚さの痛みを思い出させるかのように。
 KTのケースでは、もう少しこの孤独の苦しみは即物的で、単純で、誤解を恐れずに言えば「生物学的」なニュアンスがある。要は孤独を埋めるのは誰でもいいのである。あたかも孤独という痛みが、他人からの注意という膏薬により単純に癒されるようなところがある。でもそれは単純ではあっても強烈で、待ったなしの飢餓感や性急さを生む。そしてそれが「事件」にも最終的に結びつくことになるのだ。
 いささかKTの病理の考察を急ぎすぎる嫌いがあるので、手記を読み進めよう。ただしこの孤独の耐え難さがきわめて重要なのは、これが事件を起こす一つの重要なファクターであったからだ。そしてもう一つのファクターも、実はこの手記のごく初期に姿を現す。