2012年11月3日土曜日

続き


昨日は久しぶりに気持ちいい朝だった。
さてPTSD・解離の続きである。
他方の解離性障害は、やはり主として外傷を基盤として生じるが、その病理はPTSDと大きく異なる。PTSDにおいては、外傷体験がいわば誤った形での記憶として定着し、それが激しい情動反応や身体症状と共に繰り返しよみがえるという形を取る。通常の記憶が、それらの部分的に徐々に薄れていくという形を取って忘却されていくことを考えれば、PTSDはいわば「忘却できない病理」と言える。しかし解離においては、外傷体験はそれを体験した主体もろとも隔離され、逆に主体はそれを通常の形では想起出来なくなる傾向がある。こちらは「想起できない病理」といえるだろう。そこで生じているのは心の働きがいくつかに分離して連絡が断たれるプロセスであり、それを一世紀以上前にピエール・ジャネが解離という用語を用いて概念化したのである。
 深刻な解離性障害における外傷体験が、しばしば幼少時のそれにさかのぼることは、解離という精神現象の持つ特徴とも関係している。一般的に解離は幼少時には非常に活発にかつ日常的に生じる。幼児が空想にふけって時を忘れたり、物語登場人物に乗り移ったようにそれに没頭したり、いわゆる想像上の友達を作り上げて語りかけるといった体験はいずれも解離に関連した症状といえるが、生理的なレベルで誰にでも生じる可能性がある。それらはやがて成長とともにそれは強い情動体験や外傷体験のとき以外は生じなくなる傾向にある。しかし幼少時に外傷体験にさらされた後に、防衛手段としてのその使用が常態化した場合には、それが成人期にいたってもコントロール不能な形で生じるということが観察される。それが解離性障害NOS、解離性同一性障害、解離性遁走の症状として現れるのである。
解離はPTSDのような外傷体験との明白な因果関係が見られない場合にも生じるという点は重要である。本来解離傾向の強い幼児は、肉親や兄弟や友達との間でストレスを体験することでもそれを比較的解離により処理する可能性がある。すると明らかな外傷体験が見られない際にも解離性障害が潜行し、思春期以降に明らかになるという場合も少なくない。その意味で最近では解離性障害は外傷よりはむしろストレスに満ちた愛着関係によっても生じるという見方もある。
解離性障害の中でもいわゆる解離性同一性障害(多重人格障害)は治療上さまざまな戸惑いを臨床家に生むことが多い。しかし交代人格をどのように扱うべきか、それを抑えるべきか、それとも積極的に引き出すべきかといった議論は、外傷性精神障害一般について外傷記憶をどのように扱うかという問題におおむね帰着させることが出来る。それは十分安定した治療関係において注意深く行なわれるべきであることはいうまでもない。それは安易に行なわれるべきでない一方では、時には勇気付けをもって積極的に促される必要が生じる場合もあるのである。