2012年10月1日月曜日

第7章 解離現象の不思議-心理士への教訓


  解離性障害、特にDID(解離性同一性障害)の治療に当たる心理士や精神科医は、しばしば逆風に晒されていることを覚悟しなくてはならない。「あちらの世界に行ってしまったんだな」という視線。そこにはしばしば憐憫さえ感じられることがある。日本の精神分析関係の人々の間では解離を扱わないという不文律があるようであるが、良識ある精神科医や心理士の間にも「私は解離性障害には懐疑的です」と公言する人は少なくない。
   解離性障害の患者を治療する際は、治療者は同時にその姿を他の臨床家からどのように見られているかを意識せざるを得ないという事情があるわけであるが、その原因は何と言っても人格の交代現象が、あまりに私たちの常識の外にあるからである。ある人格Aが人格Bに乗っ取られるという現象は、やはり起きるはずのないことであり、オカルト的であり、まともに取り合ってはならないもの、という気を起こさせる。それは私にとっても同じであり、どこかで「そんな馬鹿な」という気持ちはいつも持っている。ただ目の前に現れる患者は、DIDに対する懐疑的な視線により傷つき、誤解を受けてきている。それこそが決定的に重要なことなのである。かのシャルコーの言葉を肝に銘じたい。

"La théorie c'est bon mais ça n'empêche pas d'exister" (J-M Charcot) 「理論もいいが、それは実在を妨げない。」
   良識ある精神科医の言い分はこうである。
「私は彼女がDIDであるかにはこだわりません。彼女が診察室内に持ち込んでくるものを扱うだけです。彼女がBさんとして登場しても、その言い分を淡々と聞くまでです。ただ私は彼女がその日はAさんではなくてBさんと名乗っているということには特に注意を払いません。Aさんと接するときと同様に接します。」
  まずこの言い分にはそれなりの治療的な意味合いがあることを認めたい。というのもこのような時、Bさんと同時にAさんも治療者の話を聞いている、という場合も少なくないからである。DIDに関する臨床が教えてくれるのは、複数の人格が同時に「覚醒」している可能性である。何日か前に述べたDIDの例では、人格Bさんがもう一つの人格Aさんの言動を背後で聞いている、ということはよくある。とすればBさんが現れても依然としてAさんに向かって話し続けるという方針にもそれなりの意味がある。
 いつものAさんにかわってBさんが出ている場合に、Aさんがもはや内側に隠れてしまい、話を聞いていない場合のほうが多いのだ。だから「Bさんが出てきても、Aさんのときと同じように話します」という方針は空振りに終わることが多い。するとやはりその場合、Bさんに対する語りかけは「Bさん、ですか。これまでAさんを見ていた方ですね。どうなさってましたか。」であるべきなのだ。
もし治療者が「Bさんが出てきても、Aさんのときと同じように話します」という方針を貫いた場合はどうなるか?それはAさんがこれまで周囲の人々と同じかかわりを持つということに過ぎない。つまり治療的なかかわりとしての特色をなんら持つことができないことになる。
ところで良識ある精神科医の態度は何に由来するのであろうか?それはおそらく「治療者として患者の操作には乗らない」というメンタリティーではないか?「患者が演技をしているのではないか?」というのがこれらの精神科医の考え方ということになるが、そこには「患者に決してだまされない」という信条がある。しかし臨床家としてむしろ大事なのは、患者のストーリーにまずは乗ってみるという余裕なのである。