2012年10月2日火曜日

第8章 脳の配線異常としてのイップス病 (1)


イップス病とは?
この間テレビを見ていたら、書道の段位を持つキャスターや芸人たちが多数の観客を入れたスタジオでその腕を競うという番組をやっていた。すると実に興味深いことだが、最初に筆を紙に下ろす直前に、傍目にも気の毒なくらいに手が大きく震えてしまうというケースが何例もあったのだ。
 このような例を見て、私たちは「よほど緊張しているのでしょうね」と片づけてしまうだろう。「そういう時はみな緊張するものですよ。あなただけじゃありません。」と、大体はこんなものである。しかしテレビ慣れしている彼らは決してシロウトではない。それでも緊張を要する場面ではあれだけ手が震えるのだ。しかしこの手の震えが毎回続いたら?それもプロスポーツとして百戦錬磨のはずの名選手が、本番で手が震えて繰り返し信じがたいようなミスを連発したら?・・・・・それが「イップス病」と呼ばれる興味深い病気である。
 イップス病については辞典によれば「ゴルフ競技で、簡単なパットの失敗の原因となる神経質な状態」とされる(オックスフォード英語辞典)。ほんのわずかな距離のパットで、失敗する方がおかしいという状況で、手が大きく震えてパットが打てない。周囲もそれを見て気の毒がるくらい、手のコントロールが効かなくなってしまう。その結果として初心者でも入るはずのパターを大きく外してしまう。
その様な状態をイップスと呼んだのは、トミー・アーマーといわれる。1960年代の事だ。
以下はネット上の記事を引用する。(http://www.cgu.ac.jp/kyouin/tyagi/yips1.html)「ABSs of GOLF1967)」の中で、トミー・アーマーは次のように記している。
 「イップスを経験しない間は、ゴルフの世界をすべて体験したことにはならない。イップスは、ショートゲームを台無しにする脳の痙攣である。私はこの恐ろしい病気にイップスという言葉を最初に使用したという栄誉を担っている。私自身も、イップス、痙攣、震え、異常な緊張、そして麻痺など、これまで秘密扱いされたり苦痛で矮小化されてきた恐ろしい体験を味わいたくなかったのに……。私がこの障害に今や一般に使用されるようになったイップスという名前を付けたのである。」(ABSs of GOLF1967))ちなみにイップス病については、「イップスの科学」(田辺規充著、星和書店、 2001)という本が非常に参考になる。本人が精神科医でゴルファー、そしてイップス病に苦しんだだけあり、非常に説得力がある。それによるとイップス病が障害するのはパターだけではない。例えばドライバーイップスなどは、スイングでドライバーを振りかぶったまま、クラブが下りてこずにそのまま固まってしまう、ということまで起きるという。ゴルフクラブを振り上げたままウンウン唸っているゴルファーを周囲は怪訝そうな目で見るというわけだ。
ところで冒頭の芸人の例はイップス病を同列には論じられないが、テレビに慣れている芸人たちにもそのような特殊な状況では震えが起きるように、このイップス病も慣れ、不慣れということとは無縁のようである。トミー・アーマーも、イップス病に悩まされる多くのゴルフプレーヤーもプロとしてこれまで長年やってきた人たちであるという。それがイップス病に取りつかれてしまうのだ。スポーツについてはプロ中のプロのはずのあの江川卓も、アイアンもウッドもイップスになってしまいゴルフをやめてしまったと言われる。
ゴルフだけではない「イップス病」
ゴルフにおける障害としてイップス病を紹介した。しかし実はイップス病はかなり多くの職業について起きることが知られている。そのひとつとして野球がある。アメリカのメジャーリーグでピッチャーに返球が出来ずにグラウンドにボールを投げつけてしまうというキャッチャーがいた。彼はその代わり盗塁の際は二塁に矢のようなボールを送れたそうである。このようにキャッチャーの陥るイップスは「送球イップス」などの呼び方さえある。最近ユーチューブでは大リークの試合中にピッチャーへの返球がことごとく冒頭になるキャッチャーの映像を見たが、本当に胸が痛くなる。何度も続くピッチャーへの冒頭。しばらくぶりにピッチャーにちゃんと返球できると、観客から拍手が沸くのだ。野球の基本中の基本であるキャッチボールをほんの短い距離の相手にさえ満足に出来なくなってしまった選手の失望は並々ならぬものがあると思う。ただし彼はおそらく普通のキャッチボールなら問題なくできるだろう。問題は大衆が見守る中でピッチャーにボールを返す時だけに生じるのである。(以下にその悲惨な映像もある。)



 
 
スポーツだけではない。緊張感を強いられるようなあらゆる活動や職業にそれは現れうる。たとえば作家やタイピストや音楽家の陥る同様の障害があり、書痙 writerscramp、タイピストの痙攣typistscramp, 音楽家の痙攣musicianscramp、などと呼ばれ、全部まとめて職業痙攣 occupational cramp などとという呼称もある。
原因は何か?
この不思議なイップス病、その原因は多少なりとも解明されつつある。もちろん単に緊張しているから手が震える、というような単純なものではない。その正体は、「課題遂行時の局所的なジストニア」とされる。と言われても何のことだかわからないという人は多いかもしれない。ジストニアとは、筋肉が一時的に興奮し、硬直することである。イップス病に悩まされるこるゴルファーの手の筋電図を取ったところ、パターでクラブがボールに当たる200ミリ秒前に、前腕を屈曲させる筋肉と伸ばす筋肉が同時に緊張を起こしているという。そしてこれはたとえば書痙と同じだと言うわけだ。書痙でも、書こうとすると手の筋肉が硬直してスムーズな動きを阻害する。(信頼のおけるメイヨクリニックのサイトより。http://mayoresearch.mayo.edu/adler_lab/project2.cfm
この状態を田辺市はこう言いかえる。「一種の脳の配線異常。緊張することで大脳辺縁系の興奮が高まると、その活動に必要な筋肉に異常な信号が発せられてしまい、それが固定して治らなくなる状態。」「ショートパットを毎回緊張して沈めているうちに、そのストレスが大脳辺縁系を刺激し、神経回路の再構成が起こり、やがて手に痙攣が起きるような神経伝達の閉鎖回路が出来上がるのです。」(74ページ)
この表現は精神科医としてはいまいちわからないが、結局イップスとは次のような病気としてまとめることができる。
「緊張するという状態でのパフォーマンスを強いるうちに、脳の特別の回路が形成されてしまい、それにより自動的に余計な筋肉が収縮してしまうために起きる問題。」つまりはニューラルネットワークにおける配線異常が形成されているというわけだ。
私たちはある動作をするときに、それに必要な筋肉の収縮、弛緩ということを適度の強度で、一定の順番どおりに行なっている。それがプログラムされ、記憶されているから、それを遂行することが出来る。それを仮にABCDと描けるとしよう。そして例えばCの時に、余計な筋肉の収縮Eが同時に入り込んでしまい、それを邪魔するとしよう。すると今度はABC(→E)→Dになってしまい、結果に大きな問題が生じることになる。ボールを打つ、特に球を投げる、といった行為は、余計な筋肉の収縮一つが加わることで、多摩の方向は全く違ってしまうだろう。これはちょうど、球を打つ、投げるという瞬間に誰かに腕をつつかれるようなものである。
 さてこれが練習や経験の量と違うというのは、あくまでも練習とはABCDという手順が完成することであり、本人はそれに従ってやっているつもりでも、何らかの理由でそのプログラムが本人の意思とは別に書き換えられ、今度はその練習をつめばつむほど、その誤ったプログラムABC(→E)→Dが強化されてしまうという矛盾した結果を生むのだ。
この脳のプログラムが書き換えられるというプロセスは、まるでコンピューターのウイルスのようなものだろう。いったんそれが入り込むと、本人が全く意図しなくても、誤ったプログラムが作動してしまうのだ。