2012年9月30日日曜日

第7章 解離現象の不思議


何より不思議な交代人格の存在

手の込んだ実験を行うことなく臨床的に確かめられる驚くべき事実、それは次のような現象が人の心に生じうるということである。
面接者がある患者Aさんと話し始めると、それとは異なる人格Bさんが、Aさんに入れ替わって出現する。Bさんは全く異なった話し方、物腰、記憶をもち、しばしば自分はAさんを通してその体験を見ていると証言するのだ。
   私たちは日常生活の上でも不思議な現象を目にすることが多い。テレビでも超常現象やマジックの実演を目にすることがたびたびあり、その時は驚きの声をあげながら画面に見入る。しかし私たちは通常そのような体験を、すぐに忘れてしまう傾向にある。ありえないこと、何かの間違いとして頭の中で処理してしまうことで、毎日が生きやすくなるからだ。人格の交代現象を目にしても、多くの臨床家はそれを深く考えなかったり、追求しなかったりする。そしてここから臨床家は二種類に分かれることになる。人格交代という現象を正面から考える人々と、そうしない人々。
   さてこの種の人格交代現象が実際に起きることを体験している私は、そこから思考を開始するしかないが、これは私たちが持っている心の常識を根本的に変える可能性がある。このような現象を起こしうるポテンシャルを持つものとして脳を捉えなおさざるを得なくなるのだ。
 ただしこの解離現象をとらえる道筋は、これまでの本書の議論の流れの上に沿ったものだ。これまで意図的な行動、創造活動、夢、という順番で論じてきたのは、一貫して脳におけるニューラルネットワークの自律的な活動がそれらにどのように反映されているか、という問題である。私たちが能動的に活動を行っているという感覚が実は錯覚である、という議論なのだ。とすると意図的な行動→創造活動→夢と来てその先にあるのが、私たちの中に自分以外の自律的な他者をもつ、という体験になる。私たちはその他者の思考や行動に対してh受身的にならざるを得ない。それが依然として自分の脳の中で生じているのに、である。
  解離現象による人格の生成も、やはりそれを生み出すのはニューラルネットワークであるが、そこでの自律的な活動についてはともかく、もう一つの意識が生まれるとはいったいどのようなことなのだろうか? ニューラルネットワークとは、改めて言うが神経細胞(ニューロン)とその間をつなぐ神経線維により形成される網目である。そして脳という巨大なニューラルネットワークは、おそらくはいくつかのサブ・ネットワークに別れている可能性がある。例えば私たちは右脳と左脳のそれぞれが意識を持ちうることを示唆したが、それが一つの例である。実際には左右にはっきり分かれはしなくともいくつかのパターンが存在し、それぞれが意識を持ちうるのであろう。

自律性のきわみとしての人格

ネットワークの自立性ということを述べたが、別人格の成立は、その自律性の究極の形と言っていいであろう。そしてそもそも一つの組織はそれが部分として切り離されるとそれが自律性を発揮するという例は少なくない。私がその一つとしてよくあげるのが、心筋細胞である。心臓はその全体が一つのリズムで拍動している。しかし心臓をいくつかの部分に切り分けると、その部分が勝手なリズムでの拍動を行い始める。そして心筋細胞を一つ一つ切り離し、顕微鏡の下でのぞくと、それ自体が拍動をしていることが観察される。ニューラルネットワークも、その一部が他から切り離されることで、一つの独立した意識を持つということは少なくない。その一つの具体的な例が、先ほど言及し、前書でも紹介した、左右半球が別々の心を持つという離断脳の実験である。
 ところで脳=ニューラルネットワークは、一つ以上の意識の存在を可能にするほどのキャパシティを持っているのだろうか? これについては特に問題はない。考えてみよう。ネズミは意識を持つであろうか? おそらく。私たちが持つ意識ほど洗練されてはいないにしても「自分」という感覚はあるであろう。そしてそれを構成しているのは、おそらく人間の脳に比べてはるかに少ない数のニューロンからなる神経ネットワークなのである。人間の脳のサイズを考えたら、そこに多数の意識が存在していても少しもおかしくないことになる。
これらの説明を聞いて次のように考える読者も多いであろう。「それではその巨大なニューラルネットワークがいくつかに分割されることでいくつかの異なる人格が成立するのではないか?」ところが異なる人格が脳の別々の場所で成立しているという形をとるわけではない。fMRIなどでいくつかの異なる人格の際の脳の活動を調べても、人格により脳の別々の場所が活動を示すというわけではないのだ。むしろそれぞれの人格は脳全体のネット枠の幾つかの独立した興奮のパターンを形成する、と考えるべきである。そしてそれぞれのパターンどうしは複雑に入り組んでいるために、脳のどこかに局在するという形をとらないのである。
 それを説明するために次のような単純化した図式を考えてみる。脳の配線マップに極めて簡略化したネットワークA(赤で示す)を載せてみる。そして人格Aの心身の活動は、このネットワークを基盤に起きていると考えよう。つまりAが感じ、思い、行動する際、だいたいこのネットワークAを含んだ神経線維が興奮するのだ。そして次にB(黄緑で示す)を考える。こちらは交代人格Bの際によく用いられるネットワークであるとする。図でこのABを微妙にずらして描いているのは、両者が共通した配線を持っていないということを表現しているからである。すなわち同じ音楽を聴き、同じ動作を行うにしても、ABは異なった神経回路を用いることになる。DIDでは非常に多くの場合、ABという二つの交代人格は、まったく異なる感情表現をし、まったく異なる話し方をし、まったく異なる筆跡を示す。人間として生活するうえでまったく異なる二つのセットのネットワークを有しているかのようだ。
 なぜ解離性同一性障害においてABという異なる配線のセットが成立したかは難しい問題であるが、ある特殊な状況で、Aが一つの体験を持つことができなくなった際に、Bが成立し(あるいは何らかの形ですでに成立していて)、そちらの方にスイッチが切り替わるという事態が起きた、としか表現できないであろう。もちろんその詳しい機序は明らかではない。