2012年9月24日月曜日

第5章 ニューラルネットワークとしての脳 (3)

ニューラルネットワークの自律性と能動的な体験

ニューラルネットワークの持つ自立性ということに言及したが、これについてはさらに説明が必要になるだろう。まずその自立性をもっとも典型的な形で表しているのが、私たち自身が能動的と感じる体験である。ネットワークの自律性は、意識にとって「自分がやっている」という感じを生む。これは前野流にいえば錯覚、ということになるが、それでもネットワークの自律性が主体の能動性に切れ目なく連続していることを意味する。
 私たちがあることを意図して行う時、「今自分がこれをやっているのだ」という感覚は通常ならごく自然に生じる。たとえば手を伸ばして目の前のコップを取り上げる、という動作を考えよう。コップを取り上げたあなたは、それを自分の自由意思で行ったということについては、疑問を抱かないはずである。
 しかしこのような動作を細かく見た場合には、実はそれがかなり自動的で無意識的な行動の連続により成立していることに気が付くだろう。そもそも最初の手を伸ばすという行為からして、どこまで純粋に自発的かはわからない。あたかも私たちの意識は「手を伸ばす行動をする命令をいつでもいいから体に出しなさい」という命令を脳に投げかけて、あとは脳が勝手にさいころを転がして、その瞬間を適当に決めて行っている、というところがある。そしてここが大事なのだが、いざ手を伸ばすという行動が開始すると、私たちはそれを意外に思うのではなく「ほら、私が意図したとおりに手を伸ばし始めているぞ」という能動感を得る。これが錯覚であるということの根拠を、私たちはBLの実験を通して学んだのである。被験者に、「指を好きなときに動かすように」と指示すると、ある瞬間にそれを自分に命令したと感じた人の脳の脳波は、実は必ずそれより0.5秒先立っている、というあの実験だ。そしていったんコップに手を伸ばし始めたら、どこまで手を伸ばすか、コップをどの程度の握力でつかむか、などの細かい情報は実は小脳や大脳基底核に入力されている。決して自分が意図してそれらを決めているわけではない。それはそれらの部位の障害を持った人が、この簡単な作業の遂行がまったく不可能になってしまうことからもわかるのである。
 このように考えると目の前のコップをつかむという能動的な行為でさえ、どこまでが自分の能動性の発揮されたものなのか、どこまで脳が自動的、無意識的に行なっているのか、という問題はたちまち見えにくくなってしまうのである。
 この能動性の感覚は様々なのものまで及ぶことが知られる。たとえば私たちが歩いたり呼吸したりするという行為は、かなりの部分が自動的、無意識的に行われているが、それでも「自分が呼吸をしている、歩いている」という感覚を与えるだろう。無意識的に行っている、ということは脳の呼吸中枢や運動やからの信号が必ずしも私たちの意識野に上っていない、ということであるが、それでも私たちはそれを自発的に行っている、という感覚を持つのだ。ちょうど政界の派閥の長は、秘書のやっていることにいちいち関与をしていなくても、自分の指示で行なっているのだ、という感覚を持つように。(それにしてはいったん問題が生じると、派閥の長は秘書の自律性を主張し始めるのは非常に不思議な現象といわなくてはならない。)

 無意識に行なっていても、能動感が伴うような行動については、たとえば陸上競技のスタートなどは好例である。陸上競技では号砲による合図から0.1秒以内に競技者が反応するとフライングと判定される。正常なら音に対する身体的な反応は医学的に見てそれ以上かかることが知られているからだ。ただしいつ来るかわからない刺激を待ち構えている場合には、普通の人で反応するのに0.2秒ほどはかかるとされる。「光源が光ったらボタンを押すという単純な反応を調べると、一流選手でさえ0.2秒かかります。そこから青と赤ふたつのランプを用意したり、選択肢が増えると反応時間は増加していきます。しかも全身運動の場合だと、単純反応に約0.1秒がプラスされます」(生島淳 新世代スポーツ総研 剛速球を科学する 人間は何キロの球まで打てる?http://number.bunshun.jp/articles/-/12200 より)。
それなのにトップアスリートの場合はこれが0.1秒まで圧縮されていくわけである。そのプロセスはまさに脳が号砲の音を聞いてから足の筋肉を収縮させるというループにバイパスを設けていくかということになる。そしてそれは当然意識的なプロセスを迂回していく。それでもアスリートはそれでも「自分はピストルの音を聞いてスタートしたのだ」という能動的な感覚を持つであろう。ところがそれはピストルの音を聞いて、一歩踏み出した後に事後的に、いわば錯覚として作られるといっていいのだ。