2012年9月4日火曜日

第1章 報酬系という宿命 (4)

報酬系は「ハイジャック」されてしまうことがある

報酬系の話は実は精神科関係の疾患にとっても極めて重要である。その代表が嗜癖addictionだ。特定の薬物、アルコール、特定の行為等で報酬系が強烈に刺激され、強い快感が体験されると、人はそれを追い求めるようになる。問題はその体験をしばらく繰り返すと、人はそれから逃れることがきわめて難しくなるということだ。報酬系が他のことには「イエス」と言ってくれなくなる。いわば報酬系がハイジャックされた状態と言えるのである。以下略
 先に「報酬系は中脳被蓋野から側坐核へ至るドーパミン経路である」という説明をして図も示したが、その内容の細部を知る必要はない。ただし被蓋野からのルートの一部は、前頭前野にも及んでいる、ということは覚えておいていただきたい。前頭前野とは大脳皮質で、ここで生じたことは意識にのぼる。この前頭前野への投射は、いわゆる飢餓感や渇望に関係していると言われている。このルートにより快感の体験は、「もっと欲しい!」という渇望、飢餓感として意識されるわけである。そして今度はその前頭前野から側坐核へのグルタミン酸(ドーパミンではなくて)作動性のループが知られている。嗜癖ではこのループに重要な変化が生じていることがわかっている。そこが太いパイプのようになり、そこを強烈に信号が流れるようになってしまい、もうそれを変えることが出来なくなってしまうのだ。そして前頭前野で「~が欲しい」と思い浮かべることで、激しい渇望がわき上がり、それを止めることが出来なくなってしまうのだ。
 私たちはたばこ(ニコチン)や酒(アルコール)やいわゆる麻薬によりその様な状態が生じることを知っている。ちなみに麻薬とは一般に大麻、コカイン、アンフェタミン、ヘロイン,モルフィンなどをさすが、正式な意味での麻薬 narcotics は阿片から生成されるもの、つまりヘロイン、モルフィン、コデイン系のもの及びその人口合成物質、つまりオピオイドのみをさす。日本語の用い方が不正確なのである。ただし物質ばかりではない。それはギャンブルやゲームなどの行為についても生じうることが知られる。
 それらへの嗜癖が生じている人の報酬系の興奮をfMRIなどで調べると、興味深いことが生じている。それは彼らの脳では、普通の人にとっては快楽的なことも、報酬系に興奮が起こらないのである。例えばおいしいものを食べてもあまり喜びを得られない。普通のセックスでは快感は得られない。その時例えば煙草やアルコールや、その他の嗜癖になっているものを付け加えることで、初めて報酬系が通常通りの興奮するように出来ている。つまり嗜癖物質や行為を介さなければ、本来の快感を味わえなくなってしまっているのだ。おいしい料理の後の一服がたまらない、コカイン抜きのセックスはつまらない、ということになる。

 私たちは嗜癖を生じた人たちのことを、普通の人たちより享楽的だと感じるかもしれない。彼らは通常の人間よりより大きな快感を得ている、と。しかしそれは実は正しくない。彼らは最初のうちは普通では味わえない快を体験したかもしれない。しかし嗜癖が生じてしまうと、むしろ普通の人が体験できるような満足体験を得らえず、不幸や苦痛を味わっているのである。そして人並みの快楽を得るために薬物や嗜癖になっている行為をするという極めて不幸な悪循環が生じているのだ。

以上報酬系について大まかな話をした。報酬系の話は複雑であるが、私たちの脳のあり方が私たちの行動をどのように規定しているかを考えるうえで非常に重要である。この他にも私たちの心や行動を左右している脳の部位はたくさんある。例えば青斑核というところが突然興奮するとパニック発作が起きる。扁桃体の興奮で激しい恐怖に襲われることもある。(両側の扁桃体を除去してしまうと、恐れがなくなってしまう)。前頭前野を広範に除去すると人格が変わってしまい、人間らしさを失ってしまう、などなど・・・。その中で報酬系は、私たちが何に向かうか、何を回避するかという最も基本的な問題を扱っている。本書では後半で、「報酬系という宿命 その2」として報酬系について少しマニアックな話を続けることにする。