2012年8月26日日曜日

続・脳科学と心の臨床 (84)


心理療法家へのアドバイス2

「自らにとって快感なものを人は信じる」という原則に立つ

人はこれこそ自分が信じるもの、というものを持つことが多い。福原愛ちゃんにとっては、それは卓球だろう。五嶋みどりさんにとってはバイオリンに違いない。故小此木啓吾先生にとっては精神分析だったはずだ。また中には「自分から競馬を取ったら何も残らない」、という人もいるかもしれない。「自分は覚せい剤なしにはいられない」という人もいるはずだ(コマッタモノダ)
 心理療法を行なううえで大切なのは、人はそれぞれ自分の好みや癖や習慣を有するだけでなく、ある種の信条belief に支配されているということである。Belief を日本語にすると、つい信条とか、信じていること、という風になるが、要するに自分にとって「これだ!」と思ったり感じたりできることである。そしてそのbelief に沿う形で広がっていく体系がbelief systemというわけだ。それは自らの報酬系にフィットした一定の考え方、感じ方の複合体であり、それが報酬系を刺激する限りは人はそこから動こうとしない。人はどうしてそのようなbelief に固執するかを尋ねられた場合に、何らかの理屈を口にするかもしれない。しかしもちろんそれは理屈ではなくて口実に過ぎない。上では覚せい剤依存の人の例まで出したが、覚せい剤がbelief であると言っているわけではない。覚せい剤を使用している自分を肯定できるようなbelief system ということだ。どうしてそんな自分をbelief system にすることが出来るかって? だから報酬系とはそういうものなのだ。気持ちいいものが正しいもの、「これしかない」ものになってしまう、それほどに私たちは報酬系に支配される運命にあるのである。
 しかし私はここで「心理療法家は患者がそれぞれ持っているbelief を変えることはできないから何をしても無駄である」と言おうとしているわけではない。「心理療法家は患者のbelief を受け入れるということからしか治療は始まらない」ということを主張しているのだ。すると次のような反論は必ず来るだろう。「患者のbelief system は病理を含んでいるはずであり、それをそのまま受容することは治療に反するのではないか?」この点については、コフート的な考え方に従えばいいだろう。患者は治療者に、そのbelief を受け止めてくれることで理解されていると感じた地点から、そのbelief について同時に感じる問題点についても話すことが出来るのである。
 例えば過食嘔吐がある人の気持ちを私はおそらく本当の意味では分からない。自分にその経験は事実上ないからである。でも私の目の前でそれを訴える人の話を聞きながら、そして過食嘔吐に苦しんでいる人と話した経験で補強しながら、それを受け入れようと努めるだろう。受け入れるのは過食嘔吐という問題だけではなく、それをその文脈の中に含むような患者のbelief system ということになる。それは基本的には快感原則に従うために、それを容易にやめることが出来ないという事実である。「それからどうするのか?」と人は問うかもしれないが、患者にとってはそのbelief system を理解されるという体験自体にすでに意味があったりするのだ。