報酬系の続き(2)
むしろ「快感原則」と「不快原則」の共存か?
このテーマに入ってから暴走気味で、おそらく誰もフォローしていないだろう。学問(これも?)とは孤独なものだ。
さてイグアナには無理で、犬や人には可能なこの快の遅延をどのように説明するのか? もし動物の行動が、快感を得る方向に水路づけられているとしたら、お預けの行為はそれとは逆になる。快感原則は、その瞬間には不快を選択させているという奇妙な現象が生じる。どうも最初の前提、すなわち「人(犬も)は突き詰めれば快感を追求して動くのであり、理屈で動くのではない。理屈はむしろ後からついてくる。」がどうもアヤしい。そこでやはり考えなくてはならないのが、人は不快を回避するという原則にも縛られているという考え方だ。いくつも原則を作るのは抵抗があるが、仕方がないので、こちらは「不快原則」と呼ぶことにする。やはりこの二つを考えなくては理屈に合わなくなるのである。こういうことだ。人(犬)は常に、次の瞬間にある行動を選択した場合の快と、不快を別々に査定し、比べている。そしてその絶対値の多い方を選択しているのだ。目の前の餌に突進するという行動は、それによる快と、不快を比べた上で、例えば不快の方が大きい、という判断のもとに抑制される。査定の結果が逆だったら餌に突進することになる。もちろん査定が間違っていることはある。するとその時点で行動は方向転換することになる。
このように考えると、快を遅延していると思われた行為は、実はその間じゅう不快を回避し続けていることになりはしないか? つまり犬は遠い先の報酬を見つめて我慢しているというよりは、各瞬間に鞭を打たれることを回避しながら、刹那的に生きているにすぎないのであろう。だから餌を前にした犬たちは、今にも突進しそうな衝動と戦っているために、あのように居ても立ってもいられない様子を示すのだ。
さてイグアナには無理で、犬や人には可能なこの快の遅延をどのように説明するのか? もし動物の行動が、快感を得る方向に水路づけられているとしたら、お預けの行為はそれとは逆になる。快感原則は、その瞬間には不快を選択させているという奇妙な現象が生じる。どうも最初の前提、すなわち「人(犬も)は突き詰めれば快感を追求して動くのであり、理屈で動くのではない。理屈はむしろ後からついてくる。」がどうもアヤしい。そこでやはり考えなくてはならないのが、人は不快を回避するという原則にも縛られているという考え方だ。いくつも原則を作るのは抵抗があるが、仕方がないので、こちらは「不快原則」と呼ぶことにする。やはりこの二つを考えなくては理屈に合わなくなるのである。こういうことだ。人(犬)は常に、次の瞬間にある行動を選択した場合の快と、不快を別々に査定し、比べている。そしてその絶対値の多い方を選択しているのだ。目の前の餌に突進するという行動は、それによる快と、不快を比べた上で、例えば不快の方が大きい、という判断のもとに抑制される。査定の結果が逆だったら餌に突進することになる。もちろん査定が間違っていることはある。するとその時点で行動は方向転換することになる。
このように考えると、快を遅延していると思われた行為は、実はその間じゅう不快を回避し続けていることになりはしないか? つまり犬は遠い先の報酬を見つめて我慢しているというよりは、各瞬間に鞭を打たれることを回避しながら、刹那的に生きているにすぎないのであろう。だから餌を前にした犬たちは、今にも突進しそうな衝動と戦っているために、あのように居ても立ってもいられない様子を示すのだ。
人間のためにもう少し体裁のいい例を考えよう。例えば砂漠の向こうにオアシスが見える。喉の渇いたあなたはそこまで苦労して歩いていく。これは快の遅延のように見える。しかし足を止めることはおそらく耐え難いことなのだ。別に歩みを止めることでムチに打たれるという訳ではない。しかしそれは水を口にするという時間が遅れるということを意味し、それが耐えがたいのではないか? するとこれだっては快の遅延というほど高尚なことではないかもしれないのだ。
ということで人が快感原則と不快原則の両方に支配され、どちらか優勢な方に従うという原則を何と呼ぶべきだろうか? もうこれは「現実原則」としか言いようがない。そしてこれもフロイトが使った概念である。ちなみにイグアナは快の遅延が出来ず、お預けも無理だろうという話だったが、ちょっと誤魔化しがあった。イグアナだってお預けは出来るであろう。目の前のキャベツの向こうに、天敵のカラスの姿が見えたら、それが去ってしまわない限り、「お預け」にならざるを得ないだろう。おそらくこの種の現実原則に非常に適応しているから、これらの生物は生き残っているのである。
ということで人が快感原則と不快原則の両方に支配され、どちらか優勢な方に従うという原則を何と呼ぶべきだろうか? もうこれは「現実原則」としか言いようがない。そしてこれもフロイトが使った概念である。ちなみにイグアナは快の遅延が出来ず、お預けも無理だろうという話だったが、ちょっと誤魔化しがあった。イグアナだってお預けは出来るであろう。目の前のキャベツの向こうに、天敵のカラスの姿が見えたら、それが去ってしまわない限り、「お預け」にならざるを得ないだろう。おそらくこの種の現実原則に非常に適応しているから、これらの生物は生き残っているのである。
いじめの問題を考える(8)
内藤朝雄氏の「いじめの構造」(講談社新書、2009年)を読む。結構圧倒される部分がある。彼の言う「群生秩序」と「普遍秩序」という分け方が好きだ。私が言う排除の力学は彼の言う「群生秩序」において発揮される。それを彼はこういっている。「今・ここ」のノリを「みんな」で共に生きる形が、そのまま、畏怖の対象となり、是/非を分かつ規範の準拠点になるタイプの秩序である。難しいが言わんとしていることはわかる。そして「いじめの全能筋書の三つのモデル」として①破壊神と崩れ落ちる生贄 ②主人と奴婢 ③ 遊び戯れる神とその玩具、というのが出てくる。ここら辺は実際のいじめの現場に入り、それをつぶさに観察した筆者ならではの記述が見られる。
私がいじめの現場の描写を呼んでいて思ったのは、これはまさに弱肉強食の世界、動物界の出来事と同じだと言うことだ。弱肉強食のことを英語でrule of jungle というが、まさに野生のサルの世界で起きているような事態が学校で起きる。そしてそこで特徴的なのは、教師もその一員であり、ある意味ではボスざるだと言うことだ。ボスざる(教師)は手下のさる(いじめを行う生徒)には甘く、普通の生徒には厳しい。また力のない教師は生徒以下の扱いを受けかねない。
私がいじめの現場の描写を呼んでいて思ったのは、これはまさに弱肉強食の世界、動物界の出来事と同じだと言うことだ。弱肉強食のことを英語でrule of jungle というが、まさに野生のサルの世界で起きているような事態が学校で起きる。そしてそこで特徴的なのは、教師もその一員であり、ある意味ではボスざるだと言うことだ。ボスざる(教師)は手下のさる(いじめを行う生徒)には甘く、普通の生徒には厳しい。また力のない教師は生徒以下の扱いを受けかねない。
私はこの本を読みながら、アメリカの思春期病棟での体験を思い出した。病棟は閉鎖社会であり、少し似たようなことが起きやすい。医師は一番の力を持ちながら、下手をすると力の強い看護師に圧倒されると言うことがある。私があるとき一緒に働いていた看護師長は非常に気分屋でサディスティックな40代の白人男性だった。彼といると一時も気が抜けない。私に対しては丁寧な口調を保つものの、ニコリともせず、ひ弱な東洋人(私のこと)を小ばかにしているのがミエミエだった。そしてたとえば病棟全体が一つの船に乗り込み、漂流したら、この男がたちまちボスになり、私などいじめにあい、ひとたまりもないな、と思ったものだ。
さてではどうして漂流する船ではそういうことが起きるのか?なぜジャングルでは同じようないじめが横行するのか。それは外部の秩序の欠如なのだ。私が小学生のころ、学校の秩序は保たれ、いじめなどはあからさまに起きる余地はなかった。それは教師が圧倒的に怖かったからだ。しかし教師は怖いばかりではなく、やさしくもあった。少なくとも毅然としていた。人はそのような外部の力により秩序を保つ。外部の強制力がなくなったらすぐにでも野生に戻るようで情けないが、外部の強制力は、少なくとも秩序を破ろうという発想を奪ってくれる為に、平和な生活が出来る。学校のいじめの元凶は、その圧倒的な閉鎖性にあるだろう。
内藤朝雄氏は学校に警察や法を持ち込むことを「解除キー」と呼んでいるが、それは群生秩序が外部の秩序を意識することで解体する為の決め手だろう。私が米国の状況を書いたときもそのような意図があった。ウーン。他にもいくつか本を読んでみよう。