2012年8月18日土曜日

続・脳科学と心の臨床 (82)


報酬系の続き(3

「快感原則」「不快原則」の間を埋めるのが反射的、常同的、本能的な活動
昨日のブログでは、人や犬の行動を「快感原則」と「不快原則」の両方に支配されたものとして描いた。でもこれらに支配されるということは、ある意味で高等な生物に特徴的なのだ。なぜなら想像力をそれだけ必要とするからである。下等動物ではこうは行かない。今年の522日のブログで、私はこんなことを書いた。「ヒメマスの親は、産卵の後、一生懸命砂や小石を卵の受けにかけてその卵をカモフラージュする、という行動を行う。ヒメマスはそれが快感だろうか?うーん、複雑な問題だが、少なくともその一連の行動は自然に起きてしまうようなプログラムがあるとしか考えられない。」
つまり親ヒメマスがひれをパタパタやっている時、「ウーン、ここでやめちゃうと、自分は親ヒメマスとして失格だし・・・・あと3時間ぐらいは続けよう。
」とか「わが子が元気に孵ってくれるように、真心を込めて水を送ろう・・・」などと考えているだろうか?ありえないだろう。彼らは無心に、自動的に、無意識的に、常同的にそれを行なう。それはすでに一つの回路として脳の中にプログラムされている。それは本能の一部というわけだ。生物が高等になるにつれて、この本脳によるいくつかの行動の間に隙間ができてくる。それと快、不快の主観的な体験のレベルは比例している。そしてその隙間に働く自由意志が、快楽原則、不快原則の天秤にかけられるようになるのだ。本能に従った行動は、快か、不快かって?おそらく緩やかな快なのだろう。例えば人は歩いているときに、その歩く行為について意識化していないことが多いが、歩くことは快だろうか、不快だろうか?不快ならおそらく道に座り込んでしまうだろう。ひれをパタパタしているヒメマスは、おそらくなんとなく心地いいから続けるのだろう。基本的に本能に従った行動はそれ自身が緩やかな快を生むであろうし、それはその本能的な行動が中止されないための装置なのだ。これが生殖活動などになると、大きなエネルギー消費を伴うために、当然強烈な快に裏打ちされていなくてはならない。メスのヒメマスが産んだ卵に必死に精子をかけて回るときのオスは相当コーフンしているはずだ。