2012年8月16日木曜日

続・脳科学と心の臨床 (80)

報酬系の続き (1)

 報酬系については、この「続・脳科学と心の臨床」を5月に開始した冒頭で、何度か論じただけである。しかし私にとっては極めて重要なテーマなため、今後しばらくこのテーマについて深めていきたい。実はそもそもこの「気弱な精神科医」のブログを始めた時、動因というテーマに絡めて論じたかったのもこのテーマであった。
まず今年の5月21日から数回連続して論じたことのおさらいをしたい。人は快感中枢の刺激を求めている、というテーマについて論じたのだ。「人は突き詰めれば快感を追求して動くのであり、理屈で動くのではない。理屈はむしろ後からついてくる。」こういう前提で出発した。では何が人の快感中枢を刺激するかということが、実はきわめて込み入っているのだ。ちょうど私たちが何を美味しいと感じ、どんな絵画を美しいと感じるか、というくらいに千差万別で、偶発的で、そこに理由らしいものはない。たとえば私がなぜ最近毎日昼ごはん代わりに「すいかバー」を食べているのかに理由などない。何となく食べるようになったわけだ。
人は快感に従って動く、というこのシンプルな原則を「快感原則」と呼ぼう。フロイトが論じたそれとだいたい一致している。ただしこの快感原則はいくつかの障害にすぐぶつかる。すくなくとも二つの壁がすぐ思い浮かぶ、と私は言った。一つはどうやって快感を遅延する、ということが可能なのか?という問題、そして快感を求めるのではなく、不快の回避の為にも人は動く、という問題だ。
 快感をどうして遅延できるか、という問題について。これは私にとっては大問題である。人は快感を味わうことをなぜ先延ばしに出来るのか?
今年の5月22日、23日のブロクでは、途中は省略するが、最後にこのような結論を出しておいた。

 報酬系ではドーパミン系のニューロンの興奮が常に一定のレベルで起きている。そして目の前にケーキを出されて、しかもそれを自分が食べていいのだ、と知った時に、その興奮のトーンが上昇して、またもとに戻る。これが「うれしい!」「やった!」という反応なのだ。後はそのトーンは実際のケーキを食べている時も余り変わらないという。しかしその代わりにケーキを食べることが出来なかったらどうなるか?例えばいざ口に入れようとしたら、そのケーキを誰かに取り上げられたりしたら?そのケーキを床に落としてしまったら?あるいはそれが蝋細工であるということを知ったなら?・・・・そのドーパミンニューロンの興奮のレベルが今度は一時的に落ちるのだという。

 そこで報酬系とは、実際の快ではなく、快の予想に関して反応する仕組みであると考えられている。
ということで結局快感中枢と、快感評価システムを分けて論じることになる。これについては実は2010年のブログでPES pleasure evaluating system (快感評価システム)と名づけて論じたことがある。話はここから再開する。でも少しは進歩がありそうな予感がする。
あるユーチューブの映像で、犬の「お預け」のシーンを見た。何匹もの犬が、餌の入ったボールを前にして、飼い主の合図を待っている。ある犬はよだれをダラダラ流している。大抵の犬は居ても立っても居られない、という動作をしながら、でも決して餌に口を付けない。もしそんなことをしたら、飼い主のムチが待っていることをよく知っているからだ。(もちろんそのように調教してあるのである。)そして犬たちは、飼い主の合図により一斉に餌のボールに突進する。これを一匹の犬ではなく、それを十匹以上の犬が行うから壮観である。これが快の遅延の一例である。
これまでの説明から、快感中枢で起きていることを見てみよう。目の前に餌のボールを出された時点で、ドーパミン作動性のニューロンの興奮が生じる。「やった、餌だ!」という感激である。そしてそれはすぐ止む。「やった!」感はいつまでも続かないからだ。それから犬は二つの査定を繰り返す。今すぐに餌を口にする時の快感。「ウマい!」。そして飼い主の許可なしに餌を口にすることでムチに打たれることを想像した「イタい、コワい!」。両者を比べて後者の方が凌駕しているから犬は「お預け」を選択するのだろう。逆なら・・・・ムチに打たれながら餌を頬張るしかない。
 ただこの種のお預けが出来る動物には、一定のレベルの知能が備わっていなくてはならない。それが創造力だ。イグアナに「お預け」はむりだろう。目の前の行動を起こすことで同時に生じる苦痛を査定する力、つまりは想像力が備わっていないからだ。その代わりイグアナは遠くに認めたキャベツを求めて這って行くくらいの苦労は厭わないだろう。(ちなみにイグアナは草食だそうである。)それは想像力を働かせた満足体験の遅延ではないか? たぶんそうではないだろう。それはおそらくイグアナに備わった、おそらく反射に近い行動なのだろう。餌とみなされるものが目に入った時に、そこに接近するという行動自体がもう脳にプログラムされている。


「いじめ問題」を考える(7)


いじめ問題について書いているうちに結構量が溜まって来たので、結局はブレインストーミングのままであった。マテリアルとしてはこんなものしか出てこない。
 最後に私が言いたいこと、若干の極論を書いておきたい。人間は社会的な動物である。そして社会的な動物は集団からの孤立に大きな危機感を持つ。そこで時には個を消して集団に迎合するということが起きる。そしてそこに関わって来るのが、私の述べる「排除の力学」である。この力学が働く限りいじめはなくならない可能性がある。日本独特の「ムラ社会」的な閉鎖性そのものが続いていくのだ。もちろんそれを防ぐための装置を社会が設けることはある程度は可能だろう。ある集団の外部から監視し、働きかけるような仕組みを作ること。例えば学校とは独立した機関が各校に派遣されて、いじめの実態を調査するなど。しかし派遣された人も敵陣に乗り込むようで苦労するだろう。その人がうつになったりして。私はオリンパスの元社長マイケル・ウッドフォード氏の事を考えるが、私は事情は詳しくは知らないものの、閉鎖的な者の体質を改善するべく乗り込んだ彼が体験したことも別バージョンの「排除の力学」だったのだろうと思う。会社の会計監査なんて、酷いもんだ。外部から来た人も、すぐに外部性など失ってしまうほど、排除の力学(への恐れ)は強い。
ではどうして日本社会でいじめ問題がこのような形で起きているのだろうか? 昨日のブログで紹介したように、いじめの問題は、例えばアメリカ社会では幼児虐待やネグレクトと同列の形として論じられているという印象を与える。つまり個から個への加害行為というニュアンスが強く、それが集団から個へという形を取ったとしても、それをさらに包み込む集団からの無言の支持を得るといった日本型のいじめにはならないようだ。そしてここからが私の極論だが、これは日本人が対人場面で持つ感受性の高さが関係しているように思う。日本人はたとえ個人の意見や感情を持っていたとしても、他人の前ではその表現を控えることが多いが、それは相手の感情を感じ、たとえ二者関係でも空気を読んでしまう、というか「読めて」しまうからではないだろうか? 
 私が米国人の集団にいていつも感じていたのは、この種の感受性の希薄さ、なのである。彼らは他人の前で自己主張をするとともに、相手を非難し、厳しい言葉を浴びせる。それは聞いていてハラハラするほどである。ただしお互いが直接的な表現を交わすということに慣れている社会なので、簡単に気色ばむことはなく、むしろ理詰めで相手を問い詰め、あるいは説得するという習慣が出来上がっている。
米国の軍人病院である上級医師について回っていた時のことである。米国での研修が始まって間もない頃だった。神経内科の病棟を回診していたら、ある悪性腫瘍を病んでいた患者が、その医師のもとにやってきて「先生、私の腫瘍はひょっとしたら良性、ということはないでしょうか?」と尋ねた。彼はいかにも頼りなげで不安そうであった。するとその患者の主治医である上級医師ドクターDは極めてきっぱりと「いや、悪性腫瘍です。」と言い切った。患者はいかにも悲しそうな表情で過ごすごと去って行った。私は「こんな時、日本だったら少しは言葉を濁すか、もう少し柔らかい言い方をするのではないか? やはり文化の違いだな。」と思った。ドクターDはラテンアメリカからの移民で強い南部なまりを持っていたが、それから更に彼の事を知ると、その気持ちの通じなさ加減は相当のものであった。いつもにこりともせず、冗談も通じないのだ。ロボットと一緒にいるような感じ。何を考えているのか分からない。しかしそれでいて彼と一緒の研修が終わると、食事に連れて行ってくれたりもする。アメリカ社会ではこんなレベルの交流が普通なんだ、と思った記憶がある。お互い相手をある程度以上には気持ちをわかろうとせず、それで均衡が保たれている関係。それはそれで悪くない、とそのうち思うようになった。少なくともドクターDは、患者に嘘はついていないという意味では自分の役割を果たし、ある種のマナーを守っているのだな、と思うようにもなったのである。
ただし排除の力学のもう一つの要因があるとすれば、日本人の均一さであろう。皆が同じような顔をし、同じ髪の色と眼の色をしているから、相手を数段高いレベルで理解してしまう。理解しえないと言っても、アメリカ社会のように、相手を得体のしれない、何を考えているか分からない人としてかまえるようなあの緊張感はない。何しろ向こうでは、高校に行っても、クラスメートと喧嘩をすると、相手がカバンからピストルを取り出すかもしれない社会なのだ。もし日本の外国人がこれからますます増え、職場でもクラスでも3人に一人が外国人という社会になれば、おそらく排除の力学の働き方は違ってくる。
ということで私のこの小論は、あまり「どうやったらいじめを無くすことが出来るか」ということへの積極的な提言にはなりそうもないが、日本人におけるいじめを理解するうえでの一つのヒントになることができたらと思う。
しかしこれ、相当の書き換えが必要となりそうだ。このままじゃとても出せないだろう。いじめの問題は、日本人が感受性が高いからだ、というのは支離滅裂に聞こえるかもしれない。でも日本人の感受性の高さは、いじめを生むと同時にもてなしや集団に支えられる心地よさも生んでいる。いまだにre-acculturation の終わっていない私にはそれが特に強く感じられる。