2012年8月12日日曜日

続・脳科学と心の臨床 (76)


小脳はどこに行った?(1

しかしそれにしても小脳ほど忘れられている脳はないのではないか?脳科学と心の臨床、とか言っても小脳のことは無視してきた。大脳の後ろにおんぶされているような格好でついている小脳。小脳、という名前もせいもあり、なんとなくマイナーなイメージ。(ちなみに英語だと、大脳は cerebrum(スリーブラム), 小脳は、cerebellumセレベッルム)で、小脳の方がマイナーという語感はないと思うのだが。)でも小脳って、意外とすごいのだ。といっても私もよく知らないから勉強しながら、これを書いているのだが。
小脳というと、ミスチルの桜井君が「小脳梗塞」になったことくらいでしか話題にはならなかったのではないか。小脳自体はあまり梗塞が起きない部位なので、そしてあまりそれで命を落とすことはないので話題にならないのだろう。小脳腫瘍、というのもあまり聞かないな。しかし日本には小脳研究の第一人者伊藤正男先生がいらっしゃる。基礎医学の生理学の授業で、ひときわ貫禄のある先生が伊藤先生だった。うわさでは何かの世界的な権威、ということくらいしか知らなかったが。もう30年以上前の話だ。
実を言うと小脳は秘密のベールに包まれ、ただ運動機能には非常に重要であるということだけはわかっていた。小脳の病変で、運動失調などが起きるからである。しかし最近になってようやく、それが精神の機能にとっても重要らしいということがわかってきたのだ。



いじめ問題を考える(3)


日本人の集団志向性

話が逸れそうになったので、軌道修正をする。日本人の均一性についてもう少し考えたい。(まだまだブレインストーミングである。)私は日本の集団に属していると、ある種の不思議な力を感じる。場の空気を読まなくてはならない。というよりは、場を乱してはならないから、「無用な混乱を来たしてはならない」から、そのために空気を読まなくてはならない。この感覚がアメリカ社会には希薄なのである。
一つ例を挙げよう。どの程度適切かはわからないが。私が帰国して一年間働いたある精神科の単科の病院があった。ある病棟に配属され、そこで40人程度の患者さんのうち何人かを担当したが、始終病棟にいたので担当以外の患者さんたちとも顔なじみになった。そこでの予定の一年間の期間の終了があと3ヶ月に迫ったので、病棟全体にそのことをアナウンスメントをしたい、と申し出た。実は私が一年で去ることは最初は病棟の患者さんたちに伝えていなかったのだ。(これはこれで問題かもしれないが、ここでは論じないでおく。) アメリカではこのような場合、それがかなりはっきりした予定であれば、3ヶ月ほど前にはその予定を伝えるということがよくあった。人は別離の際に、十分なモーニングワーク(喪の作業)が必要だということだが、この3ヶ月という期間自体に深い意味はないものの、まあまあ適当だと思っていた。そこでスタッフに、私が去る3月の3ヶ月前の12月ごろに、そろそろアナウンスメントをしたいと申し出たわけである。するとスタッフからの反応は全体としてネガティブで、「いや、まだいいでしょう」ということになった。それから1月になり、「そろそろ・・・」と言い出したが、「まだ駄目だ」という。結局退職の予定日の3週間前になって、「実はあと3週間で、私はこの職場を去ります」と伝えたわけだが、スタッフの中には「出て行く一週間前に伝えるのでもいい」という意見もあった。
私はこの日米の顕著な違いに興味を持ち、その理由を病棟のスタッフに尋ねてもはっきりはしなかった。しかしなんとなくわかったのが、「何もそんな前から、退職をするということを行って、患者さんたちに無用な混乱を与えることはない」という理由だった。「無用な混乱を与えたくない。」このときから気に留めだしたこの言い方、実はいろいろな場面で出くわすのである。昨年の東電の事故の際も、深刻な事態が起きているにもかかわらずそのアナウンスメントが遅れた理由を突き詰めると、そういうことらしい。最近のいじめの被害者の自殺の問題で、学校側や教育委員会が、その存在を明確にしなかった理由についてもそのようなニュアンスが感じられる。
ちなみにこの退職を最後まで言わないというのは、これまた文化的な要素がたぶんに絡み、「みなに無用な混乱を与えない」以外の意味があることを、同僚が教えてくれた。「人事は最後の最後までもらしてはならない。どんな邪魔が入るかわからないから。」 そうか、それで人事って、いつも秘密めかして行われるのか。こんな感じでスクールカウンセラーなども最後の最後、331日までそれまで担当していた中学を継続して担当するかどうかがわからないということも起きてきてしまう。これってどう考えても不都合だ。米国にはこんな習慣はなかった(また私の「米国では・・・」が始まった。)
とにかくこの「集団を混乱させてはいけない」、「場の空気を乱してはいけない」というのは本当に日本人的で、おそらくは日本人の対人場面での「皮膚感覚」に関係しているというのが私の考えである。日本人は集団でいるとき、あるいは単に誰かといるとき、相手の気持ちへの感度が高くて、つまり場を読む(感じる)力が強すぎて、それにより自分を抑えたり、相手に迎合したりということがあまりに頻繁に起きるのではないか。証明の使用がないから、私はこの偏見を引き続き持っていくことにする。
そこでこの集団への帰属性、志向性が強いということと、いじめとどう関係があるのか?