2012年8月11日土曜日

続・脳科学と心の臨床 (75)


臨床心理士への教訓)

と言ったって、サバン症候群がどう臨床に役立つんだろう? もっともらしいことが書ける自信はない。
私は心理士の皆さんにはサバン症候群が示す脳という宇宙の広さに純粋に驚嘆し、感動して欲しいと考える。それに「誰でもサバンになれるポテンシャルを持っている、問題はそれに抑制がかかっていることだ」という発想は素敵だ。私たちはさまざまな能力を、独創的な発想を、創造性を、恥ずかしさや後ろめたさや不安のためにがんじがらめに縛りつけて発揮されないようにしている可能性がある。その縛りはしばしば患者本人にも気がつかないし、その周囲の人々にも気がつかない。心理療法家はその抑制を少しだけ取り除くことに貢献できるかもしれない。それによりサバンは無理でもその患者の持っている感性や才能が花開く可能性がある。心理療法をそのようなポジティブなものとして捉えることができるかもしれない。
サバンの問題から少しだけ離れるが、日々の臨床をやっていて思うのは、いかに人にはたくさんの種類の能力があるかということ、そしてそのどれに才能や長所を見出すことが出来るかは全く人それぞれであるということだ。そこには無限のバリエーションがあり、そして類型化することはむずかしい。「彼はアスペ的だ」というのは目を疑うばかりの誇張や決め付けの結果かもしれない。実際にはアスペルガーに特徴的な所見は、一般人の中にも散発的に見られる。
たとえばある女性は人の気持ちを理解し、子供の扱いに長けているが、同時に数学が好きで、幾何学の持つ緻密で紛れのない世界が自分にとって救いの場所だと言う。これはその女性のアスペルガー的な面を表しているというよりは、数学に美的な価値を見出し、そこに浸ることが出来る能力が備わっている、と捉えるべきであろう。しかしその女性が、では物理学に興味を示氏、力学の法則に美しさを見出すかと言えば、全然違ったりする。人が何に才能を有するかは、それこそ食べ物の好みのように微妙なバランスやさまざまな要素の取り合わせが影響している。
ともかくも治療者が患者を理解するという時、その人が持っている「プチサバン」ぶりを見出すと言うことも含まれていいのだ、ということを私は付け加えておきたい。これはたとえば教育心理の分野などでは教職にあるものの立場として当然なのかもしれない。しかしこと心理臨床になると、この種の提言はあまり見られない。なぜならば心理臨床は、そして精神医学は特に、患者の以上をいかに見出すか、ということにのみ力を注ぐからである。

「いじめ問題」を考える(2

先輩、後輩関係もいじめに連続している?
私は基本的には心理現象に一つの因果関係を想定することには非常に慎重である。その代りある種の現象がいかに形を変えて別の場面でみられるかについては注意を怠らないようにしている。気象モデル的に言えば、台風●号がなぜ起きたかはあまり関心がないが、台風に似た、あるいはそれを引き起こすような気象現象が各地で日常的に起きているのではないかと考える。
私は個々のいじめ事件の因果関係について、つまりそれが何を原因として生じたかについては非常に論じることが難しいであろうと思う。しかしいじめにつながるような現象は日本の社会で常に生じているように思う。というより日本人的な人間関係はいじめを潜在的に含んでいるようだ。それは例えばアメリカ社会を体験した上で、外から見るとわかることである。先輩後輩関係。上司と部下の関係。あるいは職場での新入りに対する厳しいチェック。私はそれを日常的に目にするし、そこに一種のサディズムを感じる。しかしそれは異常な現象というよりは、人間が他者との関係で体験する苛立ちの自然な表現、という感じである。
これは余談だが、私はある大学院の教職にもあるが、自分のぜみ担当の気心の知れた学生には比較的言いたいことがいえるのである。「ちょっと、人がメールをしたら、一応24時間以内に返事をするのが礼儀でしょ。」とか。これは余程親しい友人にしか表現できないことである。(当然家人は「上司」だから言えない。)それが言えてしまう。一番自然な自己表現をしているのだ。ところが言われたゼミ生はどうだろう。こんなことを言われるのがそのゼミ生のためになるかどうかは別にして、いい気持ちはしないだろう。子ども扱いされた、憂さ晴らしをされた、と思うかもしれない。
日本社会での先輩後輩関係は、この種の気安さ、それゆえの一方的な感情表現、批判、叱責といったことが比較的制限なく進んでしまう可能性を持っているのである。
 さてこの事がどうして日本人の均一さhomogeneity と関係があるって?あるのである。日本人はある程度気心が知れていて、互いに違っていても高が知れているという感じがあり、このくらいのことを言っても、こんな扱いをしても大丈夫、というところがある。それは互いが似たものという感覚があるからだ。
私はアメリカ社会で成人になってからの半分を過ごしているので、どうしても日本社会と比較するが、アメリカ社会では、個人個人が、お互いを尊重し、同時に警戒し合っているというところがある。相手が何を考えているのか、何をしてくるのかわからないという恐れや不安は半端ではない。精神科の外来で、新患ともなるとその緊張感は日本での臨床での比ではない。どんな人が現れるのだろうか?どんな訴えだろうか?病棟内でもいつ患者に襲われるのか、という不安が常にあった。思春期病棟ですらそうである。(もちろん彼らの体格がすでに私よりはるかに勝っている場合が多かったということもあるが。)アメリカ社会では、比較的閑散とした町では、白昼道の向こうから誰かが歩いてくるというだけでも、他に人の目がない場合はとても緊張する。ひと気がないために襲われても誰にも助けてもらえないのではないか?カバンをひったくられるのではないかという危惧を常に持つ。夜女性が一人で歩けないのは当然である。持ち物は常に身につけているし、力をかけて引っ張られても大丈夫なように、常に取っ手を握っている。地下鉄に乗って居眠りをするにはとても勇気がいることだ。
そんな社会では、集団の中で他人が何を考えているかわからない、こちらの働きかけにどのような反応が返ってくるかわからないという前提で他人と係わるから、沢山のタブーがあり、それだけ人と人との距離も離れている。人をからかう、おちょくる、ということは非常におきにくい。そこからすぐに個と個の対立が起きてしまう可能性があるからだ。
そのような社会に慣れて日本に帰ると、例えば上司が部下に、上級生が下級生に無条件に見せる気安さ、ぞんざいさには少し驚く。少し話は違うが、ロンドン五輪のバドミントン女子ダブルスで銀メダルとなった藤井、垣岩ペアが、年はほとんど同じなのに、いまだに先輩、後輩と呼び合っているのが面白い。この種の上下関係がずっと続くのが日本なのだろう。