2012年7月2日月曜日

続・脳科学と心の臨床 (36)


うーん、我ながらよく調べて書いていると感心する。このブログの文よりはるかに質が良い。まあそれはともかく。
 賦活化・生成仮説について少し詳しく説明したわけであるが、たとえばネットで検索をしてみても、夢に関する著書を読んでも、このホブソン達の説が主流になっているかといえばそうではない。夢を分析可能なものとみなし、そこに様々な意味を見いだすという臨床活動を続けている人たちも、まだ沢山いるだろう。そもそも夢の分析を中心とするユング派の精神分析的治療が成り立っているということ自体がその証である。
夢の理論について私自身が考えていることは、ホブソンの説とフロイトの説のどちらでもあって、どちらでもないようなところがある。ホブソンの説のように、夢の素材は確かにランダム性を持つかもしれない。しかし驚くのはそれをもとにストーリーを組み上げる脳の力なのである。そこにはフロイトが論じた様々なメカニズムが働いている可能性があるが、それを明らかにするだけの学問的な蓄積を私たちは持っていない。とにかく何らかのきわめて複雑で精巧なメカニズムがあるから、私たちはその結果として生まれる科学的な発見や芸術的な創造物に感動するのである。
夢の素材がランダムであると言うことは、それ自身に深い意味を見出すことはあまりできないと言うことだ。例えば私の見る夢の中には昔住んでいた田舎の雰囲気も出てくるし、私が小さい頃の母親も出てくる。家の神さんが出てくることもある。今日の夢になぜ父親が出てこず、私がよく知る患者の顔が浮かばなかったかに深い理由などない。たまたまそれらがピックアップされたのだ。しかしそれが極めて入りくんだストーリーラインの中に組み込まれて仕上がってくる。よくぞこんな素材でそこまで、というような緻密さや情緒的な説得力なのだ。そしてそのストーリーラインを作っているのは脳の活動である。その合成の力こそ驚くべきである。
私が述べたこの視点と、フロイトの精神分析的な視点との違いをおわかりだろうか? フロイトは、夢が無意識的な願望などを極めて上手く包み隠すことに驚いた。そしてそこにいくつかのメカニズムを考えた。それらが(1)圧縮の作業、(2)移動の作業、(3)戯曲化、(4)理解可能にするための整理ないしは解釈、と言われるものである。そして最も重要な意味を持つのは、その素材なのである。なぜならそれが抑圧され、夢によって形を変えて表れることがその人の病理を表すのであるから。しかし私の立場は、本来は無意識内容というよりはランダム的に与えられた素材を使ってストーリーを紡ぎあげるメカニズムこそが驚くべきであり、たとえ夢がいかに意味深長でも、その素材の持つ意味を追求することには限界がある。なぜならそこには根本にはランダム性、カオス的な性質が横たわっているからである。
昨日は創造的な課程について述べたが、この夢の課程に特徴的なのは、意識の受身的な性質がさらに明らかだということである。私たちは夢に圧倒され、一大スペクタクルを見たような気がする。ただし少なくとも起きて5分程度までは。そのうちその圧倒的な印象も、その内容も霞のように消えていくのが普通だからだ。しかしともかくも私たちは完全に受け手であり、観客の側に立たされる。それは「いいメロディーが思い浮かんだ」「いいストーリーラインを思いついた」という想像プロセスに多少なりとも見られる能動感が既になくなっている。
ただし脳の側の自律性ということについてその精巧さを強調した後に言うのもナンだが、その「質」については疑問である場合も少なくない。仮に特殊な機会を装着することで、人は30分の間のレム睡眠の継続時間に起きたス―トーリーラインを完璧に再構成でき、それを映画に出来たとしよう。それを見た人の評価はきっと散々だろう。夢の話の展開は突拍子もなく、ちぐはぐでナンセンスである。その夢の内容に感動を覚える、というのはそのクオリティーの高さというよりは、それを見る脳が同時に情緒的な反応を起こしやすいという条件化にあるからであろう。だから覚醒した直後はその夢の内容に感動して泣くようなことがあっても、5分ほどしてみると、ケロッとして「オレはなんであんなことに泣いていたんだろう?」ということになる。
以上のことから一つの結論が得られはしないだろうか?意識による介助のない創造過程は十分な彫琢が得られない可能性があると言うことである。ちょうどどんなに感動的な映画でも、個々のシーンを繋げる編集の作業が欠かせないのと同じように。脳の自動的な課程はちょうど長い糸が紡ぎ出されるだけであり、それを織って布にしていくのは意識による介入という可能性がある。