突然であるが、「コフートにおける無意識」という文章を書きたくなった。(理由は聞かないで欲しい。)ただしコフートは古典的な無意識の議論に反するような「共感」の心理学を作り上げた人である。そのコフートにとっての無意識とは何か、というのは難しく、私にはあまり興味のないテーマである(言ってしまった)。でもこれを急に書きたくなった。(理由は言いたくない。オトナの事情である。)そこで今から数日はこれである。
そこで彼の論文「内省、共感、そして精神分析」(Kohut,H: Introspection, empathy, and psychoanalysis. Journal of the American Psychoanalytic Association , Volume 7 (3): 459, 1959)に、このテーマに関するそのヒントを探すことにする。この論文は彼の自己心理学に関する最初期の論文にもかかわらず、彼がその後に展開する理論の概要をすでに見通すことができる。そしてこの論文からは、コフートが無意識をその思考から排除しようとしているわけではないということもわかるのだ。排除することなく、でもあまり深刻にも扱わず。実にビミョーな関係がそこには窺える。
この論文でコフートは、とにかく精神分析において内省と共感の重要性をこれでもか、これでもか、と語っている。これから「内省・共感」という表記の仕方をするが、それはコフートにとっては両者が同等の意味を持ち、ほとんどペアのようになって出てくるからだ。コフートはこの論文では、共感を一種の内省だと考えている。共感とは「身代わりの内省 vicarious introspection」というわけだ。人の心に入り込んで、わがことのように内省をすることが共感だ、と説明するのだ。
しかしそもそもフロイトにより始まった精神分析とは、無意識を理解する営みである。他方内省とは、自分の心の中を見つめることであり、ということは意識内容である。内省を心という部屋の中をサーチライトで照らす行為と考えるならば、そこで照らされる内容は意識化されていること、意識内容ということになる。無意識ならその部屋にある特別な箱に入っていて、サーチライトでも見えないはずだからだ。
ところがこの論文でコフートが主張しているのはそれとは異なる。彼は内省・共感により、無意識や前意識における見えないものをも推論できると言っているのだ。それをコフートは彗星の動きに例えている。彗星が見えているうちに観察していれば、それが見えなくなってもその動きを推察できるようなものだ、と彼は述べている。「私たちは思考とかファンタジーを内省により観察し、それが消えたり再登場したりする条件を知ることで、抑圧という概念に到達する。」 この書き方からわかるとおり、コフートは無意識的な心的内容についても共感できるかのような書き方をしている。そこに直接見えていなくても、「見え隠れする様子」からそれを伺える、というわけだ。
この論文でコフートが出している例が興味深い。彼は上から石を落して、それが下の人に当たって死んでしまったという例を挙げて言う。「もしそこに私たちが共感することのできる意識的、無意識的な意図があったとすると、それは心理学的な行為であったということになる」(P. 208) ここの記載はサラッとし過ぎておそらく多くの読者の目をくらますかのようだ。無意識的な意図を共感する??でもどうしてそれができるのか?共感するとしたら、それはもう無意識的ではないのではないか?それも見え隠れする様子から推察できるのか。模しそうだとするならば、次のように考えることができるだろう。その男が石を落とす様子を観察する。すると明らかに意図的に落としているのがわかる。しかしその人に聞くと、「いえ、偶然落としてしまったのです」、と答えるだろう。その人の心を共感してみると・・・・「私は無意識的に、その人を狙って石を落としてしまった。」となる・・。そこで彼の論文「内省、共感、そして精神分析」(Kohut,H: Introspection, empathy, and psychoanalysis. Journal of the American Psychoanalytic Association , Volume 7 (3): 459, 1959)に、このテーマに関するそのヒントを探すことにする。この論文は彼の自己心理学に関する最初期の論文にもかかわらず、彼がその後に展開する理論の概要をすでに見通すことができる。そしてこの論文からは、コフートが無意識をその思考から排除しようとしているわけではないということもわかるのだ。排除することなく、でもあまり深刻にも扱わず。実にビミョーな関係がそこには窺える。
この論文でコフートは、とにかく精神分析において内省と共感の重要性をこれでもか、これでもか、と語っている。これから「内省・共感」という表記の仕方をするが、それはコフートにとっては両者が同等の意味を持ち、ほとんどペアのようになって出てくるからだ。コフートはこの論文では、共感を一種の内省だと考えている。共感とは「身代わりの内省 vicarious introspection」というわけだ。人の心に入り込んで、わがことのように内省をすることが共感だ、と説明するのだ。
しかしそもそもフロイトにより始まった精神分析とは、無意識を理解する営みである。他方内省とは、自分の心の中を見つめることであり、ということは意識内容である。内省を心という部屋の中をサーチライトで照らす行為と考えるならば、そこで照らされる内容は意識化されていること、意識内容ということになる。無意識ならその部屋にある特別な箱に入っていて、サーチライトでも見えないはずだからだ。
ところがこの論文でコフートが主張しているのはそれとは異なる。彼は内省・共感により、無意識や前意識における見えないものをも推論できると言っているのだ。それをコフートは彗星の動きに例えている。彗星が見えているうちに観察していれば、それが見えなくなってもその動きを推察できるようなものだ、と彼は述べている。「私たちは思考とかファンタジーを内省により観察し、それが消えたり再登場したりする条件を知ることで、抑圧という概念に到達する。」 この書き方からわかるとおり、コフートは無意識的な心的内容についても共感できるかのような書き方をしている。そこに直接見えていなくても、「見え隠れする様子」からそれを伺える、というわけだ。
しかしその人の心を共感するとしたら「私はワザとなんか石を落としていない」となるのではないか?結局無意識を共感、内省するということはどうしても矛盾しているのではないか、という疑問は残る。「見え隠れする様子」があまりにあからさまなら問題はないかもしれない。でもそれがより複雑でわかりにくい場合にはどうするのか?この疑問に、コフートはどう答えるつもりだったのだろうか?
人は自分の、ないしは他人の心の無意識を共感、内省・共感できるのだろうか、という根本的な問題をバイパスしたまま、コフートは議論を進めている。あたかもコフートのこの論文は、内省・共感という概念を、従来の精神分析理論とほとんど継ぎ目なく結び付けようとする意図があるかのようだ。彼が継ぎ目をなくそうとすればするほど、さらっと読めはするものの、肩透かしを食った感じがし、同様の疑問が大きくなる。
例えばコフートは、「内省・共感を科学的に洗練させたものが自由連想と抵抗の分析である」とも述べている。(自由連想イコール特殊な内省、というのはわかる気がする。しかしいきなり「抵抗の分析」も内省だ、といわれても「もうちょっと説明してよ」という反応が普通だろう。)そしてその特殊な内省・共感により得られたのが「無意識の発見」であったとする。こうして内省・共感と従来の精神分析との概念的な関連付けはわかったが、「どうして無意識内容を共感できるのか」という根本的な疑問には触れられず、先送りされるという感じがする。(続く)