2012年7月27日金曜日

コフートにおける無意識 (2)


ところでこの論文にみられるコフートの立場は、「そもそも無意識内容をどうして内省・共感できるのか」という問題をめぐる論争を引き起こしたとは到底いえない。「内省=意識内容の把握、であるから内省で無意識が把握できるというのはコフートの妄言」というわけか。コフート理論には確かに彼の理論の革新的な部分を受け継ぎ、古典的な分析理論へのリップサービスと見られる議論は無視する、といった傾向があるらしい。つい最近お仲間の富樫公一先生から聞いたところでは、米国の自己心理学派の間では、コフートの「変容性内在化 transmuting internalization」という概念について議論するのは、それだけで「あなたはコフート理論を分かっていない」といわれかねないそうだ。コフートのいわゆる「双極性の自己 bipolar self」も継子扱い(失礼!)されているという話を聞いたところがある。おそらくコフートが無意識をどのように扱ったか、というテーマも同じ扱いを受けかねないのだろう。(だからこのテーマ、最初から気が進まなかったのである!)
この論文はむしろ別の点から、批判を浴びたという経緯がある。それは「コフートのこの論文は一者心理学的な立場を表明したものだ」というものである。読者のために(ここまで読んでいる人がいるとは到底思えないが)少しわかりやすく言い換えよう。その批判とは、「コフートはそれまでの分析家が患者を観察して解釈という名の処方箋を出す、といった一方通行的な見方(一者心理学、つまり患者一人を治療対象とする考え方)の域を出ていないではないか。コフートがその後の発展を先導したとして後に評価されたのは、患者と治療者の相互的なコミュニケーション(二者心理学、つまり治療者と患者の双方が俎上にあるという考え方)に基づく精神分析のはずではなかったか?」いうことである。
 これをさらに言い換えるとこうだ。「コフートは最初からあまり無意識ということに関心がなかったが、古典的な分析へのリップサービスの意味でこのような論文の書き方をしたのだ。本当は治療者が患者の心に共感し、それを伝えるという相互交流のモデルを作ったのだ。内省・共感が無意識を理解できるか、というのは本来あまり大事な問題じゃなかったのだ」このような意見を述べているのは、ストロロー、アトウッド、オレンジといった本来コフートの弟子であった分析家たちである。彼らがある意味で師匠を擁護しつつ、同時に批判の目を向けていることに注目するべきであろう。そして「そもそも無意識内容をどうして内省・共感できるのか」という疑問についてはおそらく次のような言い方をするはずだ。「それはもちろん大きな疑問だ。それに意識内容さえも、共感によりそれを知ることはそもそも難しいではないか。」
実はこれはコフートの立場のさらに重要な問題に係わる批判である。これまで内省・共感とさらっと書いてきたが、そもそも共感=他人になりかわってその心を内省すること、というコフートの言い方は、決してそのまま受け取ることはできないのだ。話はそんなに簡単ではないはずだからである。
 私は自分の心の中にある気持ちを持つ。それは私自身の心を眺めて(内省して)わかることだ。しかしそれを目の前の誰かが、私になり代わりつつ知ることなんてできるだろうか?私が気持ちをすべて言葉で伝えて、その人が今、私が感じていることを同じように感じ取れることは到底難しいだろう。
ということでコフートと無意識というテーマで書いたが(2回で終わってしまった)、この問題は複雑であまり論じがいのない話である。これから話をアラン・ショアによる「無意識は右脳か?」に戻すが、実はこれがショアによる「コフート派による無意識とは何か」への答えなのである。ショアはコフート派の論客であり、なおかつ発達論者、脳科学者であることは述べた。彼によると精神分析における無意識とは、今後脳科学的な理解へと継承されることで意味を持つ、というわけなのである。(終わり)