昨日は愛犬チビの事実上のお葬式であった。夕方まで部屋を冷やして安置しておいたチビを夜遅く火葬に付したのである。最近はペットサービスが行き届き、移動式の火葬場というのがある。そのサービスを夜八時に頼んだが、焼却炉を積んだトラックを運転してやってきた中年の男性がすごく丁寧で癒された。きちんとネクタイを締めて手を合わせ線香を上げてくれた。(神さんが一緒に火葬するためにチビが好きだった肉やお菓子をコンビニに買いに行っていたので、少し開始が遅れた。)、その後2時間かけて焼いたチビの骨の一つ一つを説明して骨壷に収めるのを手伝ってくれた。こういう特別な出来事の記憶は、その時に直接かかわってくれた人のことも含めて定着する。チビの最後を思い出す時、このおじさんのことも一緒に思い出すことになるのだ。不思議なことにお骨になったチビは少しも悲惨さはなく、真っ白でおごそかだった(ちょっと大袈裟)。うん、こんなに強い骨してたんだな、とかこんな骨で地面をけって走っていたんだ、とか、首のところを触った時にあった出っ張りは、この第一頚椎の突起部分だったんだ、という感じで、感心しながらすべてを収めきった骨壷を抱くと、何かチビが新たな体を与えられたという感じだった。見慣れた姿から一気に骨になったので、諦めがついたという感じ。そのプロセスをすごくきちんとやってくれたおじさん。正しいプロセスを踏んで、ちゃんと供養をした、という実感を持たせてくれた。(このおじさんの仕事はとても大事な、誇るべき仕事だ。)お礼をはずんで渡して、骨壷を抱いて家に帰る。(と言っても実際に抱いていたのは神さんだ。)一緒に帰宅する、という感じ。帰りの車の中は、チビの思い出を話して神さんと笑った。チビが寝ていたベッド(なんと!)に、院生が送ってくれた花かごを置き、その周囲にここ数年撮ったチビと家族の写真を囲んだ。神さんも私も、もう和やかな感じである。最悪の一昨日の夜をすごして、「チビ、もういい加減に休んでくれよ」という気持ちがあったかもしれない。