2012年6月20日水曜日

続・脳科学と心の臨床(27)

サイコパスは脳の障害を持った人である、という認識は、実は私たちにとっても、臨床家にとっても非常に不都合なものである。というのも私たちが持っている勧善懲悪の観念の根拠を奪ってしまうからだ。社会正義を考える場合、他人に害悪をもたらす人々、つまり「悪い人々」を想定せざるを得ない。それらの人々が罪を犯した場合、それに見合う懲罰を与える、つまり「懲らしめる」というシステムなしに成立する社会を私たちは知らない。その場合、その悪い人の犯罪は、その人がそれが他人を害したり法を犯したりすることを十分知った上で、それを故意に選択したということが条件となる。そうでないと私たちはその人を罰することに罪悪感を覚えてしまうからだ。



さてそこにサイコパスが登場する。彼は「私はこの人をいたぶって殺すことを選択しました。私は狂気に襲われたのではありません。私は正気でそれを行ったのです。」ところがその人の脳のMRI画像を取ってみると、その一部がしっかり委縮しているのである。彼は生まれつきの脳障害の結果として残虐な犯罪行為に及んだのだろうか。だとしたら私たちは彼を「悪人」として断罪できるのだろうか?
昨年ノルウェーで数十人の人々を殺戮したアンネシュ・ブレイビク。彼は自分は正気だと言って心神耗弱として精神病院に送られることに強硬に抵抗を示しているという。彼が受けた二つの精神鑑定が全く別の結果であったこともまた深く考えさせる。一つは統合失調症、もう一つは正気。つまり後者はブレイビクの意見に一致している訳だ。しかし彼の脳の画像をもし取ったとしたら、かなり怪しいであろう。
幸いなことに、サイコパスたちが心理士のもとを治療に為に訪れることはまずないと言っていい。もし私の病気を治してほしい、と言ってきたサイコパスがいたとしたら、おそらく彼はサイコパスではないのである。心理士はだからサイコパスたちを「悪人」として扱うことをやめなくても当面は不都合はない。サイコパスの犠牲者たちの心理療法に専念すればいいのである。しかし精神医学者は、脳科学者は、とくにforensic psychiatsirst (司法精神医学者)たちは、彼らが病者として扱われるべきかどうかについて頭を悩ませることになるのだろう。(オシマイ)