2012年6月21日木曜日

続・脳科学と心の臨床(28)


白い骨になって骨壷に入ったチビは、すっかりおとなしくなってくれた。今はたくさんの花に囲まれていて、神さんと私は今は静かにチビの事を考えることができる。町で犬を連れている人を見ると「あれはみな仮の姿なのに・・・・」と、変なことを考えてしまう。

解離現象が教えてくれる脳の機能

私には私なりに、「脳の働きはこんな感じだろう」という大体の感覚を持っている。しかしあくまでも仮説的なものだ。実際の脳は巨大な神経ネットワークであり、あまりに複雑でその全貌をつかむことはできていない。ただし精神医学的な立場から多くの患者に接することで見えてくるものもある。それをもとに大胆な素描を試みてみよう。
精神医学的な立場から、といったが、脳や心を扱う様々な立場があり、それぞれが脳のいろいろな側面を垣間見せてくれる。
 たとえば脳外科医なら、開頭した患者に接することができ、脳の一部に刺激をした場合の患者の声を聞くことができる。(もちろん全身麻酔をしない場合である。)こうして、たとえばかのワイルダー・ペンフィールドは1900年代の半ばに、脳の上の「ペンフィールドの地図」を作ったのだ。彼は脳の各部分を刺激することで患者の体がどのように反応するかを調べたのである。
 また神経学者なら脳に障害を負った患者が示す症状から、脳のどの部位が人間の昨日のどの部分を追っているかを知ることができる。こうしてポール・ブローカは、左前頭葉のある部分が運動性の言語(つまりしゃべるという行為)をつかさどることを知った。彼は失語になった患者の死後の脳を観察して、みな同じ部分(後に「ブローカ中枢」と名づけられた部分)が傷を負ってクシャクシャに萎縮していることを発見したからだ。こちらは19世紀の話である。
 心について脳を扱わずに考える哲学と違い、医学はこのように実際の脳との関わりから心のあり方を知る上での情報を提供してきたが、それは様々な症状を扱う精神医学についても同様である。ここではその中でも解離現象を取り上げたい。
 解離の病理は、私たちが一番常識として大切にしている観念、すなわち「私は私であり、私以外ではない」という考えが一種の幻でしかないことを教えてくれる。デカルトの言ったゴキト・エルゴ・スム、すなわち「われ思う、ゆえにわれあり Je pense donc je suis」 を真っ向から否定するようなことが解離では生じる。自分以外の誰か、他者が自分の中に居て話しかけてくる。しかしその他者が「実在する」というわけではない。ただそのように感じられる。それが多重人格といわれる状態である。しかしではそう感じている私も実在するか、というとその保証はない。なぜならその他者は、私のことを客観視し、他者として扱うからだ。
このような現象があまりに多くの人に生じていることを知ると、私たちは次のように考えるしかなくなる。
「脳思う、ゆえにわれ(という感覚)あり」。
 私や他者という存在を成立させているのは脳というフィールドである。そこに生じたものが主観的に感じられる。主観はあくまでも脳に従属するものである・・・・・。
幸か不幸か、解離現象が教えてくれる脳のあり方はそういうものだ。しかしそのような考え方を代表するいわゆるニューラルネットワークモデルneural network model は別に解離現象をもとに発展してきたわけではない。