人の話を普通に、つまり先入観なしに聞くということは実は非常に難しいことだ。人は大概は先入観をもって他人の話を聞くからである。お互いをよく知り合っているはずのもの同士の会話でも、相手の話を普通に聞く事が難しくなることはよくある。親子間や夫婦間でこれはよく生じる。たとえばこんな会話がその例である。
A:「ねえ、はさみを使った後はもとのところに戻しておいてね。」
B:「わかったよ、もう、・・・・・ いちいち。」
A:「何よ、その言い方!」
B:「あ~、キミとはやってられない。」
普通に聞くということが出来なくなった者同士の会話の例である。「使ったものは元に戻しておいて」というAの要求はもっともらしいものに聞こえる。しかしすでに最初の「ねえ」という呼びかけに、苛立ちが表現されていたのかもしれない。そしてBはAからの字義通りのメッセージを先入観なく素直に聞いて、反省して謝罪するということはしない。そしてAはそのBの態度に腹を立てる。それに対してBが更にキレる。
ここにはお互いに「どうせ相手は~という人だ」という決め付けがある。AにとってBはいくら言っても使ったものを戻してくれないだらしない人。BにとってAは細かいことをいちいちうるさく言う人。だから互いのメッセージは、その直接的な内容を超えて、相手に対する先入観を裏付けるあらたな証拠として相手に届くことになり、それが感情的な反応を引き起こしているのである。
ところでこの場合のA,Bがそれぞれ相手に抱いているイメージ、あるいは「どうせあの人は~なひとだ」という先入観や決めつけは極端だろうか? こんなことくらいで感情的にならずに、克服していくことで共同生活は成り立つのではないか? 互いに一見胴でもいい事にこだわっているように見える。しかし共同生活を続けている人々の間では、大体折り合いのつくところはすでについていることが多い。AとBの間でさえ、そうなっているはずだ。
たとえばBがトイレを使ったあとにちゃんと蓋を閉めないが、そのことについてAはあまりこだわらないから、この件では揉め事は起きていないのかもしれない。またAは薄味が好きで、Bも似たようなところがあるから、料理の味付けについては喧嘩にはならないのだろう。
ところがAにはこだわりがある。彼女はかなりの整理好きで、文房具を置く位置には非常にうるさいのだ。他方ではBは短時間に何回もはさみを使う作業をする際に、いちいち道具箱(もちろんAの一存で設置したものだ)の所定の位置に戻しに行くのは面倒くさいし不必要だと思っているが、なんとかAに従っているというわけだ。同様にBのあるこだわりの中にはほとんどAはついていけないものの、何とか我慢していることがある。そしてそれらの点についてはもう互いの主張を「普通に聞く」ことは出来ない段階まで進んでしまうのだ。
はさみの置き場所とは他愛もない例だが、AとBは互いの人生観や倫理観の違いがそこに表れるようなかかわりについても同じような食い違いを見せる可能性がある。Aが何度も持ち出す過去の親へのうらみ、Bの繰言である上司への不満。これらについてはお互いに「自分の方にも問題があるんじゃないの?」という見方を心の底ではしている。しかしお互いにそれを面と向かって言うと角が立つので、表面上はお互いの立場を擁護して、それぞれが攻撃している相手を一緒になって責めるというスタンスを取っている。しかしそれにも限度がある。家事や仕事に疲れている際は特に身を入れて聞くことができない。すると「もういい加減にしてくれ!」となる可能性がある。そう、同居するパートナー同士は互いの話のあるものについては先入観なしに普通には聞かない状態にいたっているものなのだ。
さて来談者の話を聞く面接者の姿勢は、もちろんパートナー同士とは異なる。そこには相手への尊重があり、遠慮もある。それは両者が基本的には社会的な関係にあるからであり、面接者は来談者に対してサービスを施す側だからだ。二人はため口をきくこともないし、はさみを共有することもない。そして面接者は来談者の話を素直に、普通に、何度も聞く。一つには、50分以内にそれから解放されることがわかっているからだということもある。しかし何よりも「やれ、やれ」「またか、参ったな。」という、それ自体は自然に起きる反応に流されることなく、それらを一つ一つチェックする事を、面接者の機能としてわきまえているからである。
おもえばA,Bも実は最初に出会った頃は、そうだったのだ。最初にはさみの置き場所を指定されたBは、Aのいつにないこだわりに当惑しながらも、Aに嫌われないためにすなおに言うことを聞いていたはずである。あるいはAの方も、最初はあまりうるさく言わないようにして、Bが戻し忘れたはさみを、そっと道具箱に戻していたのかもしれない。「やれ、やれ」を互いに自分の内側で処理していたのだ。
治療関係においては、面接者は来談者とのかかわりで生じる内心の「やれ、やれ」を一つ一つチェックしながら、それが自分のほうのこだわりから来ている反応なのか、それとも来談者のこだわりからなのかを考える。そしてそれがどのような形で来談者にフィードバックされたら言いか(あるいはするべきかどうか)を考える。
このように先入観なく普通に相手の話を聞くとは、実はすごく込み入った仕事なのだ。「普通に聞く」は決して「普通には出来ない」かもしれないのである。「普通なかかわり」について細かく考えていくのは、面接者の業であり、それ自身は決して「普通」ではないかもしれない。だから精神療法はきわめて人工的に「普通」や自然」を作り上げる作業とも言える。
そういえば以前に著した「自然流精神療法のすすめ」の中で、精神療法過程を「盆栽のようなもの」と表現したことを思い出した。思えば悪くない比喩のように思う。
A:「ねえ、はさみを使った後はもとのところに戻しておいてね。」
B:「わかったよ、もう、・・・・・ いちいち。」
A:「何よ、その言い方!」
B:「あ~、キミとはやってられない。」
普通に聞くということが出来なくなった者同士の会話の例である。「使ったものは元に戻しておいて」というAの要求はもっともらしいものに聞こえる。しかしすでに最初の「ねえ」という呼びかけに、苛立ちが表現されていたのかもしれない。そしてBはAからの字義通りのメッセージを先入観なく素直に聞いて、反省して謝罪するということはしない。そしてAはそのBの態度に腹を立てる。それに対してBが更にキレる。
ここにはお互いに「どうせ相手は~という人だ」という決め付けがある。AにとってBはいくら言っても使ったものを戻してくれないだらしない人。BにとってAは細かいことをいちいちうるさく言う人。だから互いのメッセージは、その直接的な内容を超えて、相手に対する先入観を裏付けるあらたな証拠として相手に届くことになり、それが感情的な反応を引き起こしているのである。
ところでこの場合のA,Bがそれぞれ相手に抱いているイメージ、あるいは「どうせあの人は~なひとだ」という先入観や決めつけは極端だろうか? こんなことくらいで感情的にならずに、克服していくことで共同生活は成り立つのではないか? 互いに一見胴でもいい事にこだわっているように見える。しかし共同生活を続けている人々の間では、大体折り合いのつくところはすでについていることが多い。AとBの間でさえ、そうなっているはずだ。
たとえばBがトイレを使ったあとにちゃんと蓋を閉めないが、そのことについてAはあまりこだわらないから、この件では揉め事は起きていないのかもしれない。またAは薄味が好きで、Bも似たようなところがあるから、料理の味付けについては喧嘩にはならないのだろう。
ところがAにはこだわりがある。彼女はかなりの整理好きで、文房具を置く位置には非常にうるさいのだ。他方ではBは短時間に何回もはさみを使う作業をする際に、いちいち道具箱(もちろんAの一存で設置したものだ)の所定の位置に戻しに行くのは面倒くさいし不必要だと思っているが、なんとかAに従っているというわけだ。同様にBのあるこだわりの中にはほとんどAはついていけないものの、何とか我慢していることがある。そしてそれらの点についてはもう互いの主張を「普通に聞く」ことは出来ない段階まで進んでしまうのだ。
はさみの置き場所とは他愛もない例だが、AとBは互いの人生観や倫理観の違いがそこに表れるようなかかわりについても同じような食い違いを見せる可能性がある。Aが何度も持ち出す過去の親へのうらみ、Bの繰言である上司への不満。これらについてはお互いに「自分の方にも問題があるんじゃないの?」という見方を心の底ではしている。しかしお互いにそれを面と向かって言うと角が立つので、表面上はお互いの立場を擁護して、それぞれが攻撃している相手を一緒になって責めるというスタンスを取っている。しかしそれにも限度がある。家事や仕事に疲れている際は特に身を入れて聞くことができない。すると「もういい加減にしてくれ!」となる可能性がある。そう、同居するパートナー同士は互いの話のあるものについては先入観なしに普通には聞かない状態にいたっているものなのだ。
さて来談者の話を聞く面接者の姿勢は、もちろんパートナー同士とは異なる。そこには相手への尊重があり、遠慮もある。それは両者が基本的には社会的な関係にあるからであり、面接者は来談者に対してサービスを施す側だからだ。二人はため口をきくこともないし、はさみを共有することもない。そして面接者は来談者の話を素直に、普通に、何度も聞く。一つには、50分以内にそれから解放されることがわかっているからだということもある。しかし何よりも「やれ、やれ」「またか、参ったな。」という、それ自体は自然に起きる反応に流されることなく、それらを一つ一つチェックする事を、面接者の機能としてわきまえているからである。
おもえばA,Bも実は最初に出会った頃は、そうだったのだ。最初にはさみの置き場所を指定されたBは、Aのいつにないこだわりに当惑しながらも、Aに嫌われないためにすなおに言うことを聞いていたはずである。あるいはAの方も、最初はあまりうるさく言わないようにして、Bが戻し忘れたはさみを、そっと道具箱に戻していたのかもしれない。「やれ、やれ」を互いに自分の内側で処理していたのだ。
治療関係においては、面接者は来談者とのかかわりで生じる内心の「やれ、やれ」を一つ一つチェックしながら、それが自分のほうのこだわりから来ている反応なのか、それとも来談者のこだわりからなのかを考える。そしてそれがどのような形で来談者にフィードバックされたら言いか(あるいはするべきかどうか)を考える。
このように先入観なく普通に相手の話を聞くとは、実はすごく込み入った仕事なのだ。「普通に聞く」は決して「普通には出来ない」かもしれないのである。「普通なかかわり」について細かく考えていくのは、面接者の業であり、それ自身は決して「普通」ではないかもしれない。だから精神療法はきわめて人工的に「普通」や自然」を作り上げる作業とも言える。
そういえば以前に著した「自然流精神療法のすすめ」の中で、精神療法過程を「盆栽のようなもの」と表現したことを思い出した。思えば悪くない比喩のように思う。