2012年1月26日木曜日

心得23.治療者は「怒りの芽」を羅針盤に使う(一部修正後)

時々聞く言葉。「先生に怒られて目が覚めました」(ある患者さんの言葉)とか「子供を叱らないでどうして教育ができようか?」(ある親の言葉)。これらを聞くと、思わず心が動かされそうになる。怒りには人を啓発したり導いたりする独特の効用があるのではないかと考えてしまう。しかしそれでも、怒りの表現は療法家にはいらないと思う。ただ怒りの感情は治療場面で今何が起きているかを知る上での大事な指標となるのだ。
人間として生きて行く上で、怒りは不可抗力として生じる。満員電車で足を踏まれてムカっとしない人はいないだろう。最初の瞬間の怒り、私が「怒りの芽」と呼ぶ感情は、もうこれがなければ人間ではない、というくらいに自然でかつ必要なものだ。そうでないと全く無抵抗な人間になってしまい、悪意を持った人間たちから足を踏まれるがまま、小突かれるままになってしまい、痣だらけ、満身創痍になってしまうだろう。人は最低限わが身を守ることだけは必要である。だから正当な怒り、ノーマルな怒りは次のように定義出来る。「自分のパーソナルスペースが侵害された時、その侵害者に対して持つ怒り」。だから「人の足、踏まんといて!()OKなのである。
この正当な怒りは獣だって魚だって皆示すものである。コブダイは自分の縄張りに侵入してきた魚をたちまちのうちに撃退する(別にコブダイでなくてもいいが、この間テレビでやっていたのだ)。その様子はいかにも「怒って」いるように見えるし、こうして彼らは自分の生命を守っているのだ。エゾシカだって自分の縄張りのメスに近づいた別の推すには歯をむき出して向かっていく。(これも・・・ついこの間テレビでやっていた。) 動物の場合はこれで雌雄の決着がつくと、敗れた側は潔く去っていく。その後の恨みつらみはなさそうだ。(「いつまでも根に持つコブダイ」なんてのもいたりして。)
ところが人間の場合はここで問題が生じる。本人からすれば正当な怒りが、周囲の目からは明らかに過剰反応だったりする。相手からすれば「ちょっと足の先が当たったからと言って、そこまで怒ることはないでしょう?」となるかもしれない。人間の場合、パーソナルスペースは仮想上のものをも含む。自分のプライバシー、心の中の聖域、という意味でのパーソナルスペースなら、侵入されたくない心の部分として誰もが持っているだろうが、時にはそれが本人の自己愛と結びついて肥大する可能性がある。するとちょっとしたことでプライドを傷つけられて立腹し、相手を攻撃するということが生じる。これを精神分析家ハインツ・コフートは「自己愛憤怒」と呼んだわけである。この自己愛憤怒は何も自己愛パーソナリティ障害の人だけが体験するわけではない。自分自身の理想像を追求する私たちは、必然的に自己愛傾向を持ち、その分だけ自己愛憤怒を体験することになる。それがあまりに自然にかつ頻繁に生じるために、私たちはその怒りを体験したり表現したりすることを正当化する傾向にある。そしてその正当化の理由は他にもたくさんある。第一に怒りの表現はそれ自身が快楽的でありうる。第二に、それにより相手に復讐を果たすことができ、これも満足体験となろう。そして第三にそうすることで自分の自己愛の傷つきに直面することを避けることができるのだ。
人がみな多かれ少なかれ自己愛的であることからくる怒り、コフートの言う自己愛憤怒をここでわかりやすく「自己愛的な怒り」と呼ぶことにしよう。つまり怒りを正当な怒りと自己愛的な怒り、と分けたことになる。わかりやすく言えば、私たちの体験する怒りとは、大概が両方が合わさったものなのだ。つまりある程度は正当、そしてその人の自己愛の問題に応じた自己愛的な怒りが付け加わる。そして後者を大概は正当化しつつ私たちは生きている。またそれで大概は問題がないわけだ。
親や教師や指導者が、子供や生徒のために何かをしてあげるとき、その「何か」が全体として相手のためのものなら、その途中で自己愛的な意味で腹が立ち、それを表現することも「コミ」というところがある。息子を剣道で鍛えようとする親は、子供の竹刀の持ち方や打ちこみの時の姿勢を怒鳴り付けて直そうとするかもしれない。それは怒っているように聞こえるだろうし、実際に怒ることもあるだろう。親は子供から侵害されているわけでない以上は、その怒りの大部分は正当でないもの、自己愛的なものとなるだろう。しかしその度に父親は「待てよ、自分は本気で起こっているのだろうか?それって正当な怒りではないのではないか?親としてのエゴや自己愛のせいではないか?」などと考えている暇などないだろう。怒りを振り返ることにはエネルギーが必要だし、そのエネルギーをむしろ子供を鍛え上げることのために使うことはおそらく正当なことなのだ。
ところが怒りには必然的に自己愛的な部分が入り込むために、それがトラウマとして働く可能性がある。そこが問題だ。それをなるべく防ぐとしたら、親や教師や指導者は怒りのうちの自己愛的な部分を削り落とす心的な作業が必要となる。いわば怒りの解毒作業である。自己愛的な怒りは常に一瞬ではあれ現れるものだから、この「怒りの芽」を摘み取る作業も、精神療法のプロセスではおそらく間断なく行われるべきものだ。
私は療法家とは、自分の怒りを解毒するだけの精神的、時間的な余裕をもった職業だと規定したい。そこにはトラウマが生じる余地は、可能な限り回避しなくてはならないのだ。親にも、先生にも、スポーツトレーナーにもその余裕はおそらくない。しかし一日のうちの限られた時間を患者のために注ぐ治療者は、みずからの怒りを十分に検討する余裕がなくてはならない。するとその怒りは解毒されて、治療者は怒りの代わりに当惑や困惑を表現することになる。こちらの方は怒りの「正当な分解産物」として表現されてしかるべきであろう。
ただしここで改めて強調しなくてはならないのは、怒りはシグナルとして、羅針盤としての意味を持つということである。患者に対して限界設定が必要な場合、それを教えてくれるシグナルは、治療者の側の「怒りの芽」である。治療者が治療構造を引き締めなくてはならない時、「怒りの芽」を感じ取ることで、治療構造の綻びを感知するというわけだ。そしてそれは治療者の危険な自己愛の存在を知らせるものでもある。