2011年12月23日金曜日

裏表のある子 (2)

私がここで展開する議論は、解離的な視点に基づく。臨床的に触れることの多い解離性症状は、この現象は一体何なのかという疑問を常に私に突き付けてくる。なぜ一群の人々(ここでは思春期以降を指す)にとっては、「あたかも~のような」体験が「まさに~としての」体験になってしまうのだろうか?普段は「お前さんはどうして~なんだろうねえ」という内言(内なる声)が、彼らにとっては実際の声として聞こえるばかりか、その声の主に成り代わってしまうという現象が起きるのだろうか?ここで示したような解離現象は、裏表を持つ人間、(通常の意味での)二面性を持つ人間とは異なる性質を有することになる。いわば彼ら解離性の人々は、表裏を持てずにいるのである。裏を持つ代わりにもう一つの表を作り、その間を行ったり来たりするという動きを示す。

そして一昨日の「子供は本来は裏表を持てないのだ。いわば表表なのだ。」という私の主張がここにつながる。解離とは、つまり裏表を持てずにもう一つの表を作るといった傾向は子供にある程度特徴的なのだ。そしてその傾向を極端な形で、成長しても持ち続けるのが解離性の人々と言える。では子供はどうして裏表を持てないのか?それは子供が持つ、対象に「なりきる」という性質なのである。
語学は私が人並みのセンスを持つ数少ない分野である。それに加えて三十代前半からフランス語圏、英語圏にいたこともあり、幼少時に獲得しなかった自分のイントネーションの不自然さにいつも直面していた。英語圏で育つと、それこそそこで語られる言葉をそのまま脳がコピーする。4,5歳の子供が3ヶ月英語環境にいるだけで受験生が1年間躍起となって覚えこむ語彙よりはるかに多くのものを習得する。これは脳が話されている英語を、というよりは英語を話している他人の脳をコピーする、という印象がある。大人が努力と集中力で英単語を暗記するのと、幼少時に英語環境で過ごすことの違いは、手書きで本を書き写すのと、コピー機でまるごと写し取ってしまうほどの差があるのである。脳が他人の能をコピーする力は、年とともに衰える。その時期は人により差があるが、だいたい13,4歳が臨界域と考えられるだろうか。それ以降学習する語学は、もはや借り物でしかなくなってしまう(少なくとも自然さ、流暢さに関しては)。もちろんそれ以降も脳は新しいものをコピーする能力を失っていく。新しい流行やテクノロジーを取り入れるスピードは、20台より30代、それよりも40代になるにしたがって遅くなっていくようだ。それはたとえばケータイのテンキーを使った文字入力の速さなどを見れば歴然である。(ちなみに私は今でも・・・・できない・・・・・。)

脳は幼少時にどうして人の動作を見てそれをコピーできるのだろうか?このことを示しているのがおなじみミラーニューロンの発見であろうと思う。だからこのニュースは私には人事でなかった。