2011年12月21日水曜日

裏表のある子 (1) 北朝鮮の子供も泣いている

金正日の没後、DPRKで放映されたちょっと異様な光景。人が拳を地面にたたきつけて総書記の死を悼んでいる。本当の悲しみに直面した時、人間は(間欠的にしか)ああはならないことを知っている私たちは、不自然さを感じる。彼らは本当は何を思っていながら、泣いている(ふりをする)のだろうか?これも裏表の問題だ。そして「あんなこと、純真な子どもには出来ないのではないか? 子どもたちの中には演技を仕切れずにボケっとしている子もいるのではないか?」
ちょうどテレビの画面には子どもたちの集団が弔問に訪れるシーンが映った。なんと・・・・。子どもたちはもっと「真剣」に、本気で泣いているように見えるのだ。演技で泣いているであろう大人たちに比べて、子どもたちはもっとまじめに泣いているようだ・・・・。もちろん彼らは児童劇団の団員たちなのかもしれない。しかし私は次のようなことを考えた―裏表のある子ども、というテーマにとって重要だ。彼らは裏表があるのではない。裏の時も本気で、表の時も本気なのだ。むしろ両者は解離する傾向にある。そこら辺が裏表のある大人(私たちが通常出会っている人々であり、もちろん私たち自身も入る)とは違うところなのだろう。
裏表のある子どもたち、というテーマのとっかかりとして重要だと考えた。子どもたちの裏表は、私たち大人が思う裏表、とはかなり違う可能性がある。ずっと真面目な裏表、いわば違う二枚の表、ともいえる面を持つのだろう。それが余りに異なる場合には、両者は解離することになり、将来の解離性障害につながる。
同様にして子どもたちのつく嘘も、大人のそれとはかなり違う。子どもの嘘は、本気の嘘、なのである。
ここら辺から書き始めることになりそうだ。