2011年9月1日木曜日

対人恐怖とは何か(5)

Q: 何となくわかったようなわからないような話ですね。結局対人恐怖は日本に特有なものではない、ということなのですか?

A: いい質問の向け方をしてくれました。私は結局次のような結論に至ったのです。アメリカ人も日本人も人といる時の緊張感は同じだろう。ただそこに文化的な影響がみられる。わかりやすく言えば、日本では対人恐怖でいることはある意味で許されるし、対人恐怖的なところが全くないとかえって不適応を起こすようなところがある。ところがアメリカでは対人恐怖的であるということは、社会生活上少しもいいことはないという違いがある、というわけです。
Q: もうちょっと具体的にお願いします。
A: うーん、例えば日本の新首相が、民主党の代表選の時の演説で、ドジョウの話をしたのをご存知でしょう?自分は金魚のように華はない。自分は泥の中にいる土壌だ。
Q: ドジョウ、でしょ?
A: そうそう、ドジョウだ、と言ったわけです。私は思わず笑ってしまいました。だってこれがウケて選ばれる要因になったなんて、ほかの国では信じられないからです。自分が地味であることをアピールするなんて、アメリカとかフランスではありえません。ところが日本文化ではこれがウケる。日本では自分はほかの人に引け目を感じています、自分は目立ちません、というメッセージは安心感を生む。ということは対人恐怖であるということは、どこか人が期待されている人物像、というところがあるんです。
Q: ということはアメリカでは対人恐怖であることはいいことは少しもない、と。
A: そういうわけです。だからその存在が否認し続けられてきたというのが真相ではないかと思うのです。ということは彼らにとっては1980年のDSMというのは大きな発想の転換、というよりは自らのありのままの姿を認めるきっかけになったといえるでしょうね。