2011年8月18日木曜日

「母親病」とは何か?(6)問題は母子一体願望なのか? 

この母親との問題は、私の受けた分析の中でもしばしば話題に出た。そのころのことを思い出すと、私は結構当時回りにいた分析家たちの影響を受けていたことがわかる。メニンガーで私が非常にお世話になったある先生は、ラカン派といってもいいくらいに彼の理論を頻繁に口にした。ラカンを通したフロイト理論では、母子の関係はそれのみで非常に充足的であり、父親がそれに割って入ることでそれを阻止されることになる。それはいわば虚勢の脅しであり、三者関係への移行ということになるが、ラカン的に言えばそれは母子間のすべてを非言語的に了解しえて願望が即座に充足されるという世界を去り、言葉により分節化された(よくわからない・・・・・)世界に入ること、父親に象徴されるルールや規範の支配する世界で生きることを意味する。何が言いたいかといえば、母子関係、あるいはそれに代表されるような二者関係は、人が常に憧れを持ち、回帰したい場所でもある、ということだ。そしてそれがどうして嫌悪の対象になりうるかといえば、その世界にまた再び飲み込まれて出てこれないのではないか、という恐れをわれわれに抱かせるから、というわけである。
精神分析とはこんなことをいつも考える学問であり、治療法である。私も分析中母親のことを考えながら、そんなものなのかと何度もこの理屈を頭に思い浮かべた。これに従うならば、私が考える重苦しさは、実は自分がそこに飛び込んで生きたいという願望の裏返しだ、というのである。この理屈がどの程度正しいかは別として、確かにどこかで本質的な部分を捉えていると言う気もする。確かに私たちが最終的に二者関係に帰っていくという願望や衝動は、恋愛関係を考えればそうであるし、夫婦間に時々見られる、それこそパートナーに先立たれただけで生きる目的を失うようなケースを考えればわかる。どんなに虚勢を張っても、男性はいつかは自分のことを本当にわかってもらえて、ケアをしてもらえるような相手を求めるのかもしれない。今いきなり「男性」に限ってしまったが、やはり片割れに先立たれて抜け殻のようになってしまうケースは明らかに男性に多いことは、精神医学的にもよく知られている。男性におそらく典型的な母親への回帰願望というものが伏在していることで、そのような体験をかつて持っていた相手である母親からの「おいで、おいで」はそれだけ重苦しく、心にとっての負担で、かつ無意識レベルでは誘惑的な要素を含んでいると考えると、少ししっくり来るのである。