2011年8月17日水曜日

「母親病」とは何か?(5)

「私に先立ってはいけない」
保坂正康「『特攻』と日本人」(講談社新書)をめくっていたら書いてあったが、特攻隊として死地へ旅立っていく若者の多くが懸念していたことがある。それは「母親を悲しませることに忍びない」ということだった。「先立つ不孝をお許しください。」とはそのことだ。
母親は明らかに息子が死に直面することの恐ろしさを代わってやりたいとさえ思っているのだが、息子の方は既にその母親を気遣う。息子は母親にとって、わが子が死ぬことが自分が死ぬこと以上に恐ろしいことだということをどこかで知っているであろう。私は幼いころに母親から「お母さんより先に死んではいけないよ。」と実際に言われている。具体的に何歳かは忘れたが、メッセージとしては、もし「おまえが死んだらお母さんは生きていけない」という類のものもであった。そしてその後母親は不思議なことを付け加えたのだ。(ここら辺はどこかのエッセイに書いたような気がするが)「死ぬなら、病気でゆっくり死になさい。そうしたら覚悟が出来るから」という言葉だった。「なあんだ、そういう死に方だったらいいっていうの?」という意外さがあった。「結局自分のショックを恐れているだけ?」とその時思ったかは分からない。あとで「なんか変だな」、と思ったのである。
これもエッセイに3回くらい書いたことだが、後にフロイトが母親を無くした時に語ったという言葉を読んで、フロイトが言ったことにしては珍しく共感したことがあった。彼は「母親に息子の死が告げられるという恐れが無くなったので、これで息子としては自由に死ねる。」と一種の解放感をうたっているのだ。フロイトの母親は90まで生きたのであるから、フロイトは70代になるまで解放されなかった。母親が長く生きることはある意味では・・・。
精神科に「悲嘆反応」という分類がある。愛する人を亡くした時に陥る反応であり、DSM的には二月まではこれはある意味では正常(という割にはしっかり精神病として分類されているのだが)それ以後は異常としている。しかし息子を亡くした母親が生きていけない、という反応は実はある意味できわめてまっとうという気もする。自分の家族を見ていてもそうだ。恐ろしいことだが。
その意味ではこれも母親病であろう。母親は少なくとも精神的にはいわゆる逆縁を生き抜くことが出来ないとしたら、selfish gene の原則にも反するのだから。