2011年8月16日火曜日

「母親病」とは何か?(4)

母親病が生じるもうひとつの非常に重要な要素がある。それは幼少時は、母親が絶対的な位置にあるということだ。(書いてみるといかに陳腐だが。) 何しろ母親がご飯を作ってあげない!というだけで食事にありつけないということがおきうる世界である。(外国の少し古いドラマなどを見ると、実際にこの種の懲らしめが行われていたシーンにであう。)
どこかにすでに書いたが、幼少時に「いつもいい子でいなさいね。」といわれたことを覚えていて、大人になってから回顧して「なんてひどい親だったんだろう!」と怒りに震えている人がいる。「いつもいい子でいなくてはならないという命令を下すなんて、なんと残酷なんだろう?私はそれ以外の生き方をしてはいけないというのか。時々ズルをしてはいけないのか。」というわけである。何か冗談のような話だが、これが実際に起きてしまうのが、子供が幼少の際の親子の関係である。
親はしばしば自分が絶対者の立場に立っていると言う事を知らない。何しろ子供が幼少の年頃といえば、親は30歳代だったりする。自分自身も社会で十分自立していない状態で、自分に自信も持てず、「こんなおっかなびっくりで子育てをしているのに、そんな自分の言葉を真に受けるはずはない」と思うのだろう。でも子供にしてみれば、自分が親の言う事を聞かないことで捨てられてしまうのではないか、と危惧する場合だってある。(いつかダウンタウンの松本人志が、小さいころ父親のバイクの後ろに乗ってどこかに行った時のことを話していた。彼はその見慣れぬ場所で、そのまま父親においていかれたらどうしようかと、彼のすぐそばを決して離れなかったという。子供はそんなファンタジーを、例え虐待的ではない親に対しても持つものだ。)そのときにいわれた親からの言葉は実に強烈なものになりかねない。
大体人間は簡単に他人に影響など与えられないものである。「人はこうあるべきである」「~をしてはいけない。」などと説教をして他人が代わるはずもない。配偶者で試して懲りている人もいるだろう。しかし子供は実にうまい具合にその聞き手になってくれることが多い。すると親は「これはあなたのために言うのよ。決して人を信用してはいけません・・・・」初めてまともに自分の話を聞いてくれる存在をえるのである。
無論子供はそれを直ちに信じるわけではない。同様の説教や人生訓は、実はいろいろなところにあふれている。学校の先生からも散々吹き込まれるだろう。そのうちのどれかを取捨選択して取り入れていくものだ。しかし特殊な母子関係、あるいは特殊な感受性を子供が持っている場合などは、これはそのまま取り入れられ、それが内部ととてつもない齟齬を生み出すために子供に多大なストレスになることがある。たとえば「男の人を信用してはいけませんよ。お父さんがいい例です・・・」などといわれた子供は、お父さんを好きな自分との折り合いをつけることに心を痛めるかもしれない。その結果としてお父さんを好きな自分と、お母さんの言うことを聞く自分に別れてしまうこともあるくらいだ。(解離性障害の場合。)
以上の事情は、「母親病」の本質部分を構成するのではおそらくないであろうが、その背景としては非常に重要なことのように思えるのだ。