2011年4月13日水曜日

外傷体験と言葉

外傷体験と言葉というテーマですが、そもそも深刻な外傷は言葉に出来ないという特徴があります。ですから外傷についてのサイコセラピーは、ちょっと矛盾した課題ということが出来るかも知れません。本来言葉にしにくいことを言葉で扱う試みだからです。それに安易に言葉に直そうとすることで、心の傷口がさらに開いてしまうことへの懸念もあります。
そもそも記憶というのは陳述的、非陳述的という両方の部分を持っています。もとの英語は declarative memory と non-declarative memory ということで、要するに言葉に出来る部分と出来ない部分という意味です。このうち後者には、例えば体の感覚が覚えているとか、感情が覚えているという言い方が当てはまります。ですから私はこれらをわかりやすく、「言葉の記憶」(=陳述的記憶)と「体の記憶」(=非陳述的記憶)といいかえています。
さて普通の記憶は、この二つがくっついています。だから、例えば昨日の夜にあった余震の記憶について、それを思い出して、「あれは大きくて怖かったね」、などと話す時は、昨日の夜の余震の情景が浮かび、その時何をしていたのかについても覚えていますから、それを言葉で説明することができます。そしてその時の怖かった感情も一緒に思い出されることが大事です。そちらの記憶、つまり体の記憶の部分も、言葉にすることができる記憶にくっているわけです。
ところが外傷記憶というのは、この両方場がバラバラになっています。ですから大震災にあってそれがトラウマになったという場合は、「あの恐ろしい震災については、情景は浮かんでも何も感情がわかない」と事が起きてきます。あるいはそれとは別に、「その時の恐ろしさが、突然何の前触れもなく襲ってくる」という、いわゆるフラッシュバックの状態も起きます。そしてそれが言葉の記憶と体の記憶がばらばらになっているということによるものなのです。
さて治療のひとつの目標は、外傷記憶を普通の記憶に変えていくということになります。つまり言葉の記憶と体の記憶を繋げていく作業ということになります。それは具体的には、その記憶を「思い出し」ていただく、ということになりますが、これは単純には行きません。通常の意味で「思い出す」事が出来ないのが外傷記憶だからです。そこで「その体験をした時のその人に話してもらう」、ということを考えます。しかしこれには例を出して説明する必要があるでしょう。
私の知っているある男性患者Aさんは、幼いころに一時的にではありますが、母親と別れ別れになってしまったことがあります。その時はもう一生会えないのではないかと思い、その体験が非常に恐ろしかったということで、時々夢に見たりします。
ところがAさんは起きている時にもこれを思い出す事があるのですが、その時はすっかりこの年の子供に返ったようになり、シクシク泣いたり、怖い怖いと言って叫んだりするわけです。しかし言葉でその様子を表現することができません。ですからその子どもの時の気持ちに返ってもらい、その体験を十分に言葉にするという治療が必要になってくるわけです。
このようにある外傷体験を負った際には、その人がそれを言葉に出来ないほどの恐ろしい体験を持ったということで、その時の体験が、その人格ごと隔離されてしまうということが起きます。言葉に出来ないということは、その体験がその人のライフヒストリーに組み込まれなかったということでもあるのです。戦闘体験のフラッシュバックなどでも同じことが起きます。それが外傷になった=言葉に出来なかった=後で通常の形では思いだせなくなった=突然何の前触れもなくよみがえる、これはいずれも同じことの異なる表現なのです。言葉の記憶と体の記憶が別れてしまう、とは結局このようなことが多かれ少なかれ人の心に起きているということを意味します。
では治療はやみくもに、患者さんにその時に帰ってもらうのか、ということになりますが、それほど単純ではありません。通常はそれができるようになるためにはある程度の時間を要するという問題があります。トラウマとは要するに心の傷であり、それがある程度癒えてくれない限りは扱えないというところがあります。例えば震災を受けたり、肉親を失ったりした時、子どもはそれをしばらくは口にしようとしないものです。あまりにも苦痛だったり恐怖だったりしたからでしょう。その代わり時期が来れば、子どもは地震ごっこなどの遊びの形にしたり、その時の絵を書いたりするということで、少しずつその時の記憶を再生して、扱う用意が出来てきます。それを「災害を遊びにして不謹慎だ」などと考えてはいけません。逆にそのような用意ができるまでは、外傷記憶は非常に慎重に扱う必要があります。
ただしフラッシュバックが起きるときは、それが無理やり想起されてしまっているわけですから、それを止めるというよりはその時には介入するという形になります。フラッシュバックの際に、その体験をいかに言葉に直してもらうかを試みてもらうかは、それなりに意義がある介入であると言えます。