2011年4月12日火曜日

臨床現場での言語論

さて私は精神分析のトレーニングを積む中で、何か自分が使う言葉が大きく変わってしまった気がするのです。精神分析というのは、治療者側が自分の言葉の一つ一つについて反省し、考え直すという作業でもあります。それは言い換えれば中立的な言葉ということになりますが、それは精神分析や精神療法を行うときだけに限らず、本質的にはそのほかの場面で人と会う際、たとえば精神科医として患者さんと会う場合、教官として生徒と会う場合にも同じような心構えで言葉を使うようにしています。
もちろんいつも中立的な言葉の使い方をするわけではありません。親しい同僚とか家族と話すときなどはそれが自然に崩れますが、そのときは「ああ、自分はこういう風に崩しているんだな」、という漠然とした自覚が常にあります。こんなことは精神分析をやる前には考えたことはなかったのですから、その意味では精神分析的な考え方が私の人生そのものを決定しているということといってもいいでしょう。
ではその中立的な言葉の使い方とはどういうものかといえば、わかりやすく言えば余計な私情を交えない言葉を用いるということです。出来るだけ裏の意味をこめたり皮肉を言ったりせず、中立的な言葉を選択する、といってもいいでしょう。これは精神分析で言えば、逆転移を意識しながら患者を関わるということに相当します。逆転移とは、治療者が自らの感情に流されて、患者の言葉を歪曲してとらえる、というほどの意味です。
人は他人と話すとき、さまざまな個人的な感情や願望の影響を受けています。自分の抱いている興味とか、疑いとか、苛立ちとか、そのほかさまざまな余計な感情を持ち込みつつ人と話しをしています。しかし分析家の仕事が患者さんに自由に話してもらうことにその主眼があるとしたら、それらの余計な感情や願望は、ことごとくその目標に反することになります。それらが入り混じった言葉を話すと、相手はそれに気づいて合わせようとしたり、逆に反発したりして、相手の話が聞けなくなります。
ひとつ例を挙げてみましょう。たとえば患者さんが最近離婚したという話をしたとします。それを聞いた私がたとえば自分だったらどう感じるだろうかと想像して、「それはさぞつらかったでしょうね。」と問いかけたとしたらどうでしょう。ごく当たり前の反応に聞こえるかもしれませんが、ある意味で私の体験をそこに持ち込んでいることになります。なぜなら患者さんは「離婚をしてどんなに清々したか」を話そうとしていたかもしれないからです。私が「さぞつらかったでしょうね」ということで患者さんは「そうか、離婚して清々したなんて話しをしてはいけないんだ。」と思い、私の話に合わせようとするかもしれません。すると患者さんに自由に話してもらうどころか、私が患者さんの話を引き取って誘導尋問に載せてしまうことにつながりかねません。ですからそのような時は、「離婚してどんなお気持ちですか。」という問い方をすることで、さらに患者さんの話にはいっていくことになります。
この種の話の聞き方をしていると、今度は自分が話を聞いて欲しい時の身の処しかたもわかります。それは私がケアを受ける立場にある関係で、あるいはギブアンドテークが成り立っている親しい間柄ということになります。私がバイジーである際は、バイザーがそれに当たりますし、それは配偶者だったりします。その場合は自分が聞いてもらっているのだという意識がありますから、聞いてもらえて助かったという気持ちも多少なりとも芽生えるわけです。
こんなふうに書くと、私は常に模範的な話し方を心がけている、などと誤解を受けるかもしれませんが、そんなことはありません。結構自由にやっています。私情を交えない話し方は厳密に言えば不可能なことであり、人はお互いに自分の気持ちを表して、あるときは相手に聞いてもらい、別のときは逆に相手の話を聞く、というやり取りをするものです。それに相手の生の感情を知ることが話をよりいっそう興味深く、エキサイティングなものにする可能性が大きいわけですから、そのためにも自分の感情をそこに含めた、中立的でない話をして自分も楽しむということはいくらでもあります。でもそれはどちらかといえばわかってやっている問うところが多く、出来れば自分の話しをするよりは、人の話を聞くと言う姿勢のほうを好みます。もちろん私が言いたいことはたくさんありますが、それはブログなどの形で、聞きたい(読みたい)人だけがアクセスする、という場に限ることにしています。
私がこの中立的な言葉を好むのは、実は私は若いころは人との付き合い方に非常に苦労するところがありました。相手のためにアドバイスをしているのに、なぜ相手に敬遠されるのだろう、とか、人の話を一生懸命聞いていたつもりなのに、相手は満足しないのはなぜだろう、とか悩んだわけです。でもそれは私がさまざまな邪念を持って相手の話を聞いたり相手に話したりしていたということがわかり、大変助かったことを覚えています。
中立的な言葉を話すことを習得する上で、精神分析のトレーニングと同様に大切だったのが、英語での生活だったと思います。英語は母国語ではないために、少しの言い間違いが相手を傷つける、誤解を与えるということが非常に多く起きてしまうのです。それを通して、いかに注意をしながら話すべきかを学びました。また英語には、出来るだけニュートラルに自分の気持ちを相手に伝える言語というところがあります。日本で誰かと議論をしていて、「なぜ?」と聞くと、相手は問い詰められたと感じ、機嫌を損ねるということがあります。しかし英語では“Why”という問いには、冷静に根拠を伝えるという掟のようなものがあります。これは感情をいったん脇に置いて話す、という練習になりました。