急遽このテーマでまとめなくてはいけなくなった。細かい事情はここでは述べないとして、例によってこのブログの場を借りることにする。
私は精神分析家、ということになっている。(この持って回った言い方は今後も続けていくことになるだろう。)そして精神分析とはある特殊な形で言葉を扱うプロセスという印象を一般に持たれていることもわかっている。分析家は患者さんの言葉の流れを聴き、それを分析してそこに隠されたものを解き明かしていく、というニュアンスがあるだろう。そして分析家とはそのエキスパートということになるのだろう。
確かにフロイトの時代はそうだったが、現在の精神分析はそれとはずいぶん異なってきている。患者さんの言葉から無意識を解き明かしていくような一定のメソッドなど存在しない。夢は無意識への王道だということをフロイトは言ったが、夢の内容を解釈する方法さえも、多くの分析家が合意したり了解したりしているものはない。ある夢を聞かされた10人の分析家が10通りの異なる解釈をするということだってあるのだ。
むしろ現代の精神分析家たちが考えていることは、精神分析とは患者との共同作業であり、そこである種の環境ないしは世界を二人で構築することであり、その際言葉は欠くことのできない手段であるという理解が一般的であろう。つまり言葉は関係性を媒介する重要な手段であって、それ以上でも以下でもない、ということになり、私もそれに同意している。
それはどういうことか。
私は精神分析的なコミュニケーションは、治療者と患者がある意味で最も親密になるプロセスであると思う。それは両者が一定の距離を保つことで可能となる。そこにおいては、患者が出来るだけ自由に自己表現を出来るような空間が形成される必要であると思う。(そして治療者のほうもある程度は。)もちろん患者はすべてを表現できるわけではない。思いのたけをキャンバスにぶつけて絵を描くといっても、キャンバスを破ったりそこからはみ出していいというわけではない。治療空間もちょうどキャンバスと同じような枠組みを必要とする。(距離、とはそれを保障するのだ。)そしてそこで自由な自己表現を実現するのである。治療者はそれをありとあらゆる形で手助けするというわけだ。
治療空間においては患者はそこでこれまで言葉にしなかったこと、出来なかったことを表現することになるだろう。そこで逡巡し、躊躇し、言った後に驚き、訂正したりする。分析家はそれを聞いて不明な点を助けたり補ったり、質問をしたりしながら、患者さんの話(ナラティブ)を構成していく。だから治療者は言葉に敏感であり、堪能であるべきであろう。しかしそればかりではない。治療者のほうに、自分の考えを押し付けたり、患者の意図を歪曲したりしないだけの自制心や自己観察があって初めて可能になる。
治療者は言葉が堪能でなくてもいい、ということを私は外国で体験したと思う。
もともと私の言葉へのこだわりは相当のものがあったし、それはおそらく音へのこだわりに特に現れていた。中学時代には、英語の時間になると外国人がテキストを朗読している音と、日本人の英語の先生がその後に読む英語がどうしてここまで違うのかということに感動してばかりいるという学生であった。そのうち自分は日本語という言葉にいかに制限されてしまっているのか、いかに世界が狭くなってしまっているのか、ということを考えるようになった。言葉は人とコミュニケーションを行う際の鍵であり、自分は日本語の鍵しか持っていないことが残念に思うようになった。私はこうして若くして日本を飛び出したというところがある。
そのアメリカで私は精神分析のトレーニングを行ったわけであるが、最初は言葉が不自由で分析なんか受けられるのかと思った。私が分析を受けた最初のころであるが、母親との思い出を話していて言葉が詰まってしまったことがある。昔久しぶりに田舎に帰ったら、おふくろが小さなお結びを二つ、お弁当用に作ってくれた。それを下宿先に持って帰るのを忘れたのだが、それに気がついた母親がどんな思いをするのかかわいそうに思い、というよりはお結びがかわいそうになり、二時間もかけて田舎に引き返した、という話をしようとしたのであるが、「お結び」が英語で表現できない。rice ball では絶対ない、オムスビ、じゃないとダメ、という気持ちになった。だから精神分析がうまくいかないとしたら、英語のせいかもしれないとさえ思っていた。しかしそのうち言葉が出ないということは、カウチの上で子供返りしたようなものであり、かえって悪くないこともある、ということを当事一緒に留学していた和田秀樹先生と話したことを覚えている。(彼も分析家との間で同様の体験をしていたのだ。)
さて私はその後分析家の卵として患者と接することになったのだが、言葉のハンディということについては、少なくともそれが治療にとって主たる障害となることは避けることが出来たと思う。それはやはり言葉の巧みさや流暢さではなくて、先ほど述べた「ある種の世界」を作るための営みが可能かどうかということが問題なのであり、英語を一定程度こなすことが出来れば、それをクリアーできるということを学んだのである。2004年にアメリカを去る時までには、私は同僚に「僕の英語にはアクセントなんてないよ」といって笑いを取ることができるようにはなっていたのだ。