2011年4月10日日曜日

治療論 その3 (改訂版)  助言やアドバイスは簡単には汎化されない事を肝に銘じよ

今日の私の話には、私の子育て体験が相当関係しているように思う。息子に小言を言うということが多くの場合お互いにとって消耗でしかないことを、私はかなり早い時期に気がついたように思う。その早い気づきは、少なくとも私のためにはなったと思うし、彼にとってもよかったと思う。(彼にとってはどうでもよかったって?そこが問題の核心なのだ。)


治療論2からの延長の意味を持つテーマである。スーパービジョンにおける助言のあり方について考えてみる。もちろんスーパービジョンにおいて、バイザーからバイジーに与えられる助言と同類のものは、精神療法において療法家から患者に与えられることも少なくないであろう。漫然と行われる精神療法は、単なるおしゃべりとあまり変わらないからね。ただし多くのまじめな療法家は、通常の精神療法において、療法家の主たる役割が助言やアドバイスであるという捉え方をしている人は少ないであろうから、ここではスーパービジョンにおける話に主として限定しておく。
ここで私が問いかけるのは、なぜ助言やアドバイスがなぜ意図されたほどに効果を発揮しないかという問題である。この問いにはやや悲観的な響きが伴うかもしれないだろうし、それは多くのバイザーの方々には共有されないかもしれない。というのも精神療法のバイザーの多くは、口をすっぱくしてバイジーに助言を与え、叱り、小言を言うということが多くの場合効果を発揮しないということには無頓着なように思えてならないからだ。私の主張は治療論2で唱えているとおり、人を変えるのは主として現実との遭遇であるということである。もちろんこの現実には、現実の治療者とのかかわりが含まれてもいい。逆に言えば、バイザーからの助言やアドバイスは、残念ながらその現実を構成していないことが多いことに、バイザー自身も、そして多くの場合バイジーの側も自覚していない場合が多いのだ。
結論から言えば、バイザーや親のメッセージの多くは、残念ながら般化される運命にはない。そのとき聞いておしまい、という形をとる運命にあるのだ。
ここであるバイザーとバイジーの関係を考えよう。時間に厳しいバイザーである。ほんの1、2分だけ遅れでスーパービジョンに現れたバイジーに、「セッションにはどんなことがあっても決して遅れてはなりませんよ。たとえスーパービジョンのセッションでも同じですからね!」と叱りつける。そして「遅れる、ということは相手を軽視していることにつながりますからね。きっとあなたは患者さんとのセッションにも遅れてくることがあるんじゃないんですか?」バイジーはうっかり、時々患者さんを待たせてしまうことがあることを認めてしまう。するとバイザーはさらに声を荒げるだろう。「私の教育分析家は、5年間、ただの一度たりとも時間に遅れることはありませんでしたよ。」「いつも先に治療者が来ている、ということが安全な治療構造を成立させる上での基本ですからね。」と言葉を継ぎ、時間を守ることが治療的な環境においていかに大切かを解くだろう。確かに若干時間にルーズなバイジーはうなだれ、しきりにバイザーに頭を下げる。こうしてバイザーはバイジーに時間を守ることの大切さを教え込んだ・・・・はずである。ところがバイジーに時間を守る大切さはおそらくあまり伝わらない。「どうしてほんの少し時間に遅れたことをそこまで咎められなくてはならないのだろう?第一バイザーとの関係では、私はむしろサービスを受ける側だし。時間を守るよりもっと大切な事だってあるだろう。」 しかし彼はバイザーの手前、その教えが伝わったことにするだろう。でもおそらく彼が学んだのは、バイザーからの小言の汎化されたもの、すなわち「時間に遅れるべからず。」ではない。「このバイザーにとっては、時間厳守は極めて重要であり、バイジーである以上自分もそのつもりにならなくてはならない」ということしか学んでいないのである。つまりこのバイジーとどのように付き合っていくか、しか学んでいないのである。(ただしこのバイザーとの時間に遅れては大変なことになる、というのは現実として体験している。だからそれは習得したのだ。)このバイジーが時間厳守を肝に銘じる様になるためには、おそらくさらに現実的な体験を経る必要があろう。多くの患者やバイザーたちから繰り返し同じメッセージを受け取ることで、そのバイジーは最終的にそのメッセージを汎化させ、自分のものとして取り入れることにするかも知れない。しかし他のバイジーからは全く別のメッセージを受けることで、時間厳守よりもっと大切な事を学ぶバイジーもいるだろう。「時間なんかあまり気にしなくてもいいんだ」という逆の教えを受ける可能性もありうるのだ。どこかで「セッションの時間に遅れることでこんなに大きな問題を引き起こしているのだ」という体験が本当の意味で身にしみる必要があるのだ。ここで大切なのは、時間厳守を教え込んだつもりのバイザーは、バイジーに単に余計なストレスを与えるだけに終わってしまっているということだ。バイジーは真理を伝えられて正しく導かれる代わりに、自分なりの真理の追究を続けるだろう。しかし表向きはバイザーからそれを学んで身につけたものとして振舞うのである。これは一種のfalse self の形成ということになる。そのような場合はそのバイザーを離れたら、バイジーはその学んだはずのこととは別のことをおこなう可能性が高い。多くのバイジーが、実際の治療ではバイザーに言われたことと逆のことを行うと言われるのもそのせいだ。同様のことは、親に叱られて様々なことを学んでいく子供についても言える。親は子供を教え導き、正しい行動を教え込んでいるつもりである。ところが多くの場合、子供にとっての教訓は、「~すべきである」ではなく、「この親の目の前では、~すべきである」でしかない。そしてそれを続けることを強要されることは、子供にとってほとんど外傷的な意味を持つことすらある、といったら言い過ぎだろうか?