2011年4月1日金曜日

治療論 24. 人は皆それぞれ少しずつ「おかしい」ことを前提とする

日頃患者さんたちや職場の同僚や友人たちと会っていて思うのは、みんなそれぞれどこかアブナイ面を持っているということだ。表題のように「おかしい」と言い換えてもいい。一見ごく普通に社会生活を送っている人の個人的な側面に分け入ると、皆バラバラの知識や能力をもち、バラバラなりに与えられた役割に適応し、しかしそれが小さな破綻をきたすときにはかなり子どもっぽい、ないしは不適応的な防衛を用いる。人は皆不完全なのだ。社会適応を遂げている人たちは、その不完全さを職業遂行の際は、何らかの形で補うことが出来ている、というそれだけである。
このことがどうして治療論に結びつくというかといえば、人は不完全であるということを治療者が前提としない限り、患者を分かることは出来ないであろうということだ。私はケース検討などでいつも不全感を感じるのは、まるで患者が病理の固まりのように議論をすることである。論じている人間もまた不完全なのに。「不完全な人間が他人の病理を論じることはいけないことなのか?」と言われそうであるが、そういうわけではない。ただ自分が病理がないかのような前提にたった議論は、完全に「上から目線」になり、患者との関わりのあらゆる相にそれは表れる。そしてそれは必ず患者に伝わり、その分だけ治療に通うことが憂鬱になり、自己価値観の低下に繋がる可能性があるのである。それは治療という名を借りた権力の濫用に繋がるのである。
私がことあるごとにこの問題にこだわるのは、やはり昔から人から指図をされたり、指導されたりすることがことさら苦手で、「上から目線」には我慢ならなかったからだろう。もちろん理想化の対象から指導されるのは悪くはない。ある種の心地良さもあるかもしれない。しかしその理想化は、その対象をよく知らないことから来る。その人をさらによく知り、その人の不完全さを知った際には、少なくともその人の言うことに唯々諾々と従う事が可能なレベルの理想化は維持できなくなってしまうのである。私は相手に徹底して対等な態度を取ることを望むであろうし、それが得られないことを耐えがたく思うだろう。(だから若い頃からしばしば上司や先輩と喧嘩をしたものである。)
治療論のはずがエッセイになりかかっているが、言いたいのは次のようなことである。いわゆる作業同盟や治療同盟は、その基底に「対等さ」があるはずであり、その成立の基本にあるのは、治療車が自分を(患者と同様に)不完全であると認識するということである。ハリー・スタック・サリバンは言ったではないか。We are all much more simply human than otherwise (翻訳はすごーく難しい)と。