2011年3月27日日曜日

「巻頭言の書き直し」の続き(といってもなんとなくエッセイ)

今回の災害を通して感じるのは、人々の共感能力の違いである。
個人事で恐縮だが、家で被災者の映像をテレビで見ていても、家人(50代女性)の反応の仕方はかなり直接的である。津波に家が押し流される映像は、具体的な人の姿が出てこないせいか、それでも冷静に見ているが、肉親をなくした人の映像を見ると、彼女はすでに涙ぐんでいる。子供をなくした親の話などになると、とても人事としては見ていられないようだ。自分はチビ(愛犬の名前)さえいなければ、すぐにでもボランティアに行きたいとまで言い出す。そういう家人を見ると、テレビの映像をどこか遠くで起きたこととして眺めている(あるいはそれを見て涙を流すようなことなど決して起きないようにしている?)私とは明らかに違い、正直引け目を感じる。
日常の臨床でも患者さんたちの間の共感性の違いを感じる。発達障害系の人々の一部が示す無関心さも印象的である。東北地方の人々に対してどう思うか、という問いに、「別に・・・・」「私だって毎日停電で苦労している・・・」という返答しか聞かれなかったりする。他方では特にトラウマの既往のある人にとっては、津波の映像を見ることでさえ耐え難いという。あるPTSDの患者さんは、「あの家々に人が残っているのかと思うと、もうあの映像は見ていられません。」と語った。(ちなみにこの言葉は、津波の映像が繰り返し流されることの外傷性について考えていた私には重要なヒントとなった。映像に被害にあった人の姿が映っていなくてもも、それがどのような想像力を掻き立てるかによりいくらでも外傷的になるのである。)
といってももちろん、共感能力の高い人ほど被災者に対する同情や共感の念を表し・・・というほど単純なことを言おうとしているのではない。共感能力の高さはレジリエンスの高さをそのまま意味するわけでは決してない。発達障害においても、実は感覚の過剰さから身を守るために、感受性をオフにしている、という説もいまだにありうる。他人の痛みをあまりに強烈に体験しすぎ、いわば針が振り切れる状態になることを予測して、そこから心を別のところに移してしまう、つまり解離の機制を用いる人もいる。否、解離を用いなくても、針は振り切れるのだろう。私は東北の震災で死者、行方不明者が2万人を越えるだろうといわれても、その意味がつかめないでいる。身近な人が一人亡くなっただけで壊れかねない人の心が、死者二万人を想像することは実はできない。針は振り切ることでかえって感じなくしてくれる。さもなければ日常生活を続けることができないだろうからだ。