精●医●誌の巻頭言を早めに書き始めたために、書き直しが必要になった。準備が早過ぎるとこんなこともある。
この巻頭言を書いている現在、我が国はいまだ3月11日午後3時前の震災の生々しい傷跡を体験している。私の精神科の外来では、震災以来初めての再来となる患者さんと会う毎日であるが、互いの安否確認や震災当時の話に大半の時間が費やされる。
今回の震災を一市民として、そして臨床に携わるものとして体験して改めて考えさせられるのは、ストレスということの意味である。国の一部が深刻な震災に見舞われ、津波によりたくさんの人命が奪われた。そしてそれが様々な余波を引き起こした。原発の事故による電力不足が生じ、放射能汚染の不安が市民を襲っている。地震速報を聞き逃さないようにテレビをつけっぱなしにすることで不眠傾向が増す。常に揺れているような感じ、いわゆる「地震酔い」は私の患者の非常に多くを不安にしているとともに、私自身も常に揺れているかどうかをチェックしていることに気がつく。町を歩いていてもネオンが消えて暗い。地下鉄ではエレベーターが止まっている。JRには暖房が入らずに、電車内で寒さを体験する。そして物不足。さらには「後ろめたさ」。これらはストレスが様々な形を取ったものである。
実際に東北地方で震災や津波による直接のトラウマを味わってはいなくとも、おそらくほとんどの国民が多かれ少なかれ体験しているストレス。これらは決してひとまとまりになってトラウマとして襲ってくるのではないとしても、人々の生活から余裕をうばっていく。その結果として外出への不安は高まり、不眠は募り、未来に対する希望はより失われてうつは悪化していく。しかも治療者としての私達にもそれは同時に起きている為に、精神医療の質そのものも間違い無く影響をこうむっている。
治療者も患者もストレス下にあるというこの状況で感じるのは、このような時に私達はいかにそれを、誰かを責め、何かを脱価値化するという傾向に走りやすいか、ということである。私たちは例えば東電の無策を非難し、政府の無能ぶりを責め、・・・そして自分を責める。何もしていない自分に後ろめたさを感じるのである。災害時の精神医療において一番見えにくく、扱うのが困難なのは、この外や内に向く怒りや非難の問題かも知れない。(それにしても中途半端。これからどうしよう。)